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知ったかぶりよりもおそろしいもの。

知ったかぶりは、するもんじゃないよ。

若い人へのアドバイスとして、よく語られることばだ。もう一歩進んでここから、素直に「教えてください」と言える若者はかわいがられるし、いろいろ得をするもんだよ、といった処世術まじりのアドバイスもまた、よく語られる。これらの箴言について、ぼくはまったくそのとおりだと思うし、誰かに似たようなアドバイスをすることもあるのだけど、じゃあ自分がすべての知ったかぶりを排除できているかというと、決してそうではない。

一例を挙げよう。自他ともに認めるバカボンであるぼくは、インターネット強者の方々が語る「KPI」や「コンバージョン」などのことばの意味を、ほんとのところはよく理解していない。そして雑談のなかでそのことばが出てきた際にも、「コンバージョンってなんですか?」と訊こうとしない。教えてもらったところですぐに忘れてしまうだろうし、あんまり興味がないし、わからずとも話は通じると思っているからだ。たとえるならそれは「うちの会社の吉田ってヤツが言ってたんだけど、鶏の胸肉ってさ……」と語られたときに、わざわざ「吉田って誰ですか?」と訊かないのと同じことだ。文脈から推察するかぎり、「うちの会社の吉田」がどこの誰であろうと、本題である鶏の胸肉にはたぶん関係ない。この場合における吉田は、小林だって、佐々木だって、渡辺だって、かまわないのだ。ほんとの知ったかぶりとは、ここで「ああー、吉田ね」などと言ってしまうことである。ぼくは吉田をスルーするようにKPIをスルーし、小林をスルーするようにコンバージョンをスルーする。

という話とは別に、最近よく考えるのが「知ってる」と「わかる」の違いだ。


これは音楽の話を例に出すとわかりやすいのだけど、たとえばボブ・ディランという人について、いろいろと知識を仕入れることはできる。代表曲は『風に吹かれて』で、それは反戦歌で、プロテスト・フォークの旗手として絶大な支持を集めて、あんな人からこんな人までたくさんのミュージシャンたちに影響を与えて、みたいな話だ。実際ぼくもそうやって、なかば「お勉強」をするようにして彼を知り、彼の音楽を聴いていった。

ところが、そんだけの知識を得ながら聴いた彼の音楽も、最初の数年間はなにがいいのかさっぱりわからなかった。英語をそのまま理解できる人間ではないのでいまでも「わかる」とは言えないのかもしれないけれど、それでも彼にまつわる知識とはぜんぜん別のところで、ほんとうに「わかる!」と思えたのは、つまり本気で「いい!」と思えたのは、ずいぶんあとのことだった。

これはボブ・ディランにかぎったことではなく、ニール・ヤングもそうだったし、ローリング・ストーンズだって、リトル・フィートだって、オールマン・ブラザーズ・バンドだって、スティーリー・ダンだってそうだった。最初はなにがいいのかわからないまま知識先行の状態で聴き、ある瞬間に「おおお、すげえ!」と気づくのだ。その音楽の核心が、わかるのだ。


ここでもう一度音楽から離れていろんなことについて思うのだけど、とくにいまの時代、若さとは「知識が経験に先行する季節」のことを指すのだと思う。知識としての「知ってる」が、経験や熟考や実行を経た先の「わかる」に変化したとき、ようやく話がおもしろくなるのだと思う。

知ったかぶりよりもおそろしいのは、「知ってるどまり」じゃないかと思うのだ。