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わたしをあらわすコンテンツ。

きょうの昼ごはん、隣のテーブルから聞こえてきた話。

職場の同僚とおぼしき男女ふたり組がごはんを食べながら、「町で見かけた有名人」の話をしていた。年齢はまあ、30歳前後だろうか。男性のほうが、「おれはやっぱり、あれだなあ」と数年前のエピソードを語りはじめた。

男性がロードサイドの「紳士服コナカ」で買いものをしていたところ、入口付近から「店長さぁん!」と男性客のおおきな声が聞こえた。

クレームだろうか。店長らしき人が、入口のほうへ向かう。若干、ざわついている店内。ああ、悪質なクレーマーなのだろう。店長さん、わけのわからない言いがかりをつけられて、困っているのだろう。まわりの店員さんもお客さんも、なにも言えないまま遠巻きに見守っているのだろう。

野次馬な気分も芽生えた男性は、そっと入口方面に顔を向けた。



そこにいた大声の主は、短パン姿の松岡修造さんだった。


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紳士服コナカ 公式サイトより


「いま、ぼく、この近くで撮影していたんですけど!」
「向こうのほうにコナカの看板が見えたんで!」
「思わず走って来ちゃいました!」
「店長さん、スタッフのみなさん、がんばってください!」


短パン姿の松岡修造さんは、そう言い残すと走って帰っていった。


若干ネタっぽい話ではあるものの、ほんとうの話だとしてぼくは考えた。店長さんや従業員の人たちはもちろん、松岡修造さんは「そのやりとりを見ていたみんな」をしあわせにして、そしてファンにして、立ち去っていったのだよなあ、と。

むりやり教訓をひねり出すつもりはない。

けれど、ぼくらが日常やソーシャルメディアのなかで交わす会話も、「そのやりとりを見ているほかの人たち」から常に「いいなあ」とか「やだなあ」とか思われているものなのだ。

会話は、そしておしゃべりは、わたしをあらわすコンテンツとして、その場に漂っているのである。