見出し画像

ぬり絵って嫌いだったなあ、の話。

子どものころ、ぬり絵が嫌いだった。

色を塗ることが嫌いだったのではない。ぬり絵の本に描かれた、スケルトン的な輪郭オンリーのキャラクターたちが、ひたすら怖かったのだ。ドラえもんでも怪物くんでも忍者ハットリ君でもなんでも一緒だ。すけすけの、虚空そのものといったキャラクターは、正直いまでも少し怖い。

その虚空を自由気ままに埋めていくのがぬり絵なのだ、子どものたのしみなのだ、という意見もあるだろう。けれど、その作業とて大人たちが思うほどたのしいものではない。

ぬり絵には、正解があるからだ。

たとえば、ドラえもん。その身体には青く塗るべきところがあり、白のまま空けておくべきところがあり、黄色い鈴や赤い舌などの正解めいたものがある。ドラえもんの身体を真っ赤なクレヨンで塗っていったら、大人たちはその自由闊達さに目を細めつつも、こころのどこかで不正解の判を押すだろう。そして色を塗った当人である子どものほうも、薄々自分の不正解を自覚するだろう。


おそらくぬり絵は、絵画全般よりもハードルが低い美術教材として、存在している。けれどもそのハードルとは、「正解/不正解」を判断する大人側にとってのハードルだったりする。子どもが、そして人が、ほんとうの自由闊達さをもって描いたなにかとは、ぜんぶが正解だとも言えるし、ぜんぶが不正解だとも言えるものだ。


「文章に正解はない」とはよく言われる話で、実際ぼくもそう思うのだけど、それでもあからさまな不正解ってのは確実に存在する。それはぬり絵的な文法上のミスや誤字脱字などではなく、もっと絵画的な、そしてモンタージュ(映像編集)的なところでの無知や未熟、怠慢だ。

ああ、このへんをもう少し深く考えて、整理整頓して、ばしっと語れるように(いつでも自覚できるように)なりたいなあ。

ほんとうは「模写」について書こうとしたんだけど、なぜかこんな話になりました。