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ダメな原稿がダメな、ほんとうの理由

偉そうに聞こえたり、「わかったようなこと」に聞こえたりするかもしれないけれども。そしてこういう断り書きを入れる自分は弱いなあと思うけれども。

こうして note を書くようになって、ほんとうによかったと思っている。なんなら知り合いのライターさんたちすべてに、毎日書くことを推奨したい。編集者だって書いたほうがいい。出版まわりじゃないお仕事の人も、ぜひぜひだ。

なぜか。

文章力の向上、ではない。残念ながら、こんなものを毎日書いたところで、文章はうまくならない。いわゆる1000本ノック式の「なんでもいいからたくさん書け」は間違いだと、ぼくは思っている。たくさん書くことは大切だけれども、「なんでもいいから」の気持ちで書いているかぎり、まるで身にならない。数をこなすことに意味はないとは言わないけれども、「それをカウントするような数には、なんの意味もない」とは断言できる。

じゃあ、どうして毎日書いたほうがいいのか?

「なにかを書く」ということは、とりもなおさず「なにかを考える」ということだ。そしてストレスがたまっていたり、気が焦っていたり、仕事に飽きていたり、あるいは逆に慢心していたりすると、「考えること」はものの見事に雑になる。その雑さは、如実に文に表れる。

文章がうまくなるのは、時間のかかることかもしれない。
ある段階以上にいきたければ、
それなりの才能も必要になるのかもしれない。
でも、「丁寧であること」については、時間も才能もいらない。
なぜならそれは「態度」の問題だから。
ダメな原稿と呼ばれるものの大半は、下手なのではない。
ただただ、腹立たしいほどに「雑」なのだ。

では、どうすれば「雑さ」から逃れられるのか。これは簡単なようでいて、意外とむずかしい。鏡がないと自分の表情さえ知れないのと同じように、それを映し出す「なにか」がないことには、自分の態度(雑さ)は見えないからだ。

そこでようやく、冒頭の「毎日ブログを書く」という話に立ち戻る。

毎日なにかを書き続けていると、いまの自分がどんな「態度」で生きているのか、どれくらい「雑」になっているのか、うんざりするほどよくわかる。もう少し「考えること」を深められるはずなのに、深めていない。そこらへんに転がってた言葉で、なんとなく体裁を整える。小手先の技術に逃げ、ごまかすことにばかり長けてくる。身を助けるはずの技術が慢心を呼び、慢心は「態度」を揺るがし、技術が見た目の「雑さ」を覆い隠す。


……ちょうど昨日、note を読み返しながら、自分のそれに気がついた。

「もしや?」と、進行中の本の原稿をじっくり再読したところ、やはり相当に雑なまま進めようとしていた自分がいた。「どうしたんだ、おまえ!」と肩をつかんで揺さぶってやりたいくらい、かなり気の滅入る発見ではあったけれども、まだ取り返しはきく。この段階で気づくことができて、ほんとうによかった。

どんな業界のプロでも、一度身につけた技術それ自体が失われることは、たぶんない。問題は「態度」が摩耗し、雑になっていくことだ。

きっと、日々の自問と自答が大切なんだろう。
ブログとは「態度」への自問であり、「態度」からの自答だ。