見出し画像

胡散のスメル。

「会ったら意外といい人だった」。

一方的によくない印象を持っていたけれど、実際に会ってみたら礼儀正しくて腰も低くて、なんだかとってもいい人だった。温厚で、考え方もまっとうで、誤解していた自分が申し訳ないくらい、いい人だった。——これは(SNSを含む)メディアを通じて勝手に見知っていた人と会ったときの、よくある感想だ。そう、当たり前の話だけれど、ほんとに人格が破綻しているような人であれば、社会から求められることなどないし、仕事も長続きしない。セルフプロモーションとして激しさを垣間見せることはあっても、実際には大抵まっとうな人だったりするのだ。ほとんどの場合は。

そんなことはわかっていながら、やはり「この人、なんか胡散くさいんだよなあ」と思ってしまう人がいる。会えばいい人なんだろうけど、まじめな努力家なんだろうけど、どうしても消えない、胡散のにおい。


やっぱりそれは「とりまき」の放つ腐臭なんだと思う。


利用してやろうとか、得をしてやろうとか、こいつで儲けてやろうとか、思惑ありきで近づいてくる人々。マイク・タイソンでいうところのドン・キング。……こういうわかりやすい「とりまき」とは別に、たとえばSNS上で口汚いことばを使っている人の多くは、同じく口汚いことばを使う人たちとなかよしだったりする。胡散くさい人はちゃんと胡散くさい人々と友だちだし、どこか危うさを感じさせる人は、示し合わせたようにちゃんと、危なっかしい人たちとつながっている。それはもう、「類は友を呼ぶ」とか「同じ穴のムジナ」とかの整理では収まらないくらい見事に、くっついている。互いを利用し合っている。


誰だってたぶん「会って話せば、そんなに悪いやつじゃない」はずだ。


だからこそぼくは、誰かとの関係やお仕事を考えるとき、対面したときの印象と同じくらい「その人はふだん、誰となかよくしているのか?」を大事にする。どんなにデオドラント剤をふりまいても、とりまきから漂う腐臭は隠せないのだ。

「わたし」という人間は、ひとりそこに存在しているのではなく、わたしをとりまく「関係のなか」に存在しているのである。