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リモート会議に欠けているもの。

考え途中のメモ書きとして。

きのう、とある企画の打ち合わせがあった。オフィスの会議室で、顔を合わせての打ち合わせだ。予定(予想)していたよりも短い時間で、とてもスムーズにそれは終わった。このスムーズさはなんだろう。この気持ちのよさはなんだろう。打ち合わせの終盤から、ぼくは考えはじめた。

なるほど、こういうことかもしれない。——自分なりの暫定解にたどり着いたのは、打ち合わせが終わってから小一時間ほど経ってからのことだった。

他の手段と比べたとき、顔を合わせての打ち合わせ(コミュニケーション)がいいのは「時間」だ。同じ空間を共有していること。つまりは、0.01秒の単位で同じ時間を共有していること。完全なリアルタイムで、ことばをやりとりしていること。これがあるから対面式コミュニケーションは円滑に進んでいく。たとえば「わたし」がなにかをしゃべりはじめたとき、それを聴いている相手の態度や表情に、微妙な変化が生じる。マスク越しであっても、それは伝わる。変化を察知した「わたし」は、説明に変化を加えてみたり、話の流れを変えてみたり、場合によっては話を短く打ち切ったり、臨機応変に対応する。いま、なにが求められていて、なにが求められていないのか。どんな発言を相手は不快に思い、どんな話をおもしろく感じてくれるのか。これらを言外に、リアルタイムで交換し合いながら、対面式コミュニケーションは続いていく。

その対極にあるのが、たとえばメールでのやりとりだ。メールを書いているあいだ、ぼくらは当たり前のこととして相手の顔が見えない。相手のリアクションに応じて話やことばを変化させていくことがかなわず、ひとまずぜんぶを書ききってみるしかない。結果、相手にとってどうでもいいことをくどくどと書いたり、相手の心証に気づかないまま礼を失したことばを並べてみたり、要点がなにも伝わらなかったり、メールでのディスコミュニケーションは枚挙に暇がない。これは文章力以前の、「相手の顔が見えない」ことに起因する問題だとぼくは思っている。

じゃあ、Zoomに代表されるリモート会議はどうか。

Zoomでしゃべっているとき、ぼくらは相手の表情を見ているようで見ていない。そしてまた、遠隔での会話は「場の空気」を共有することが意外なほどにむずかしい。さらにZoomでは「発言者の話が終わるまで、相づちも最小限に控えながら待つ」ことが安定的な通信をおこなううえでも推奨され、もはやマナーとして定着している。要するにリモート会議は、リアルタイムのようでリアルタイムではない、むしろメールのやりとりに近い「一方的に話す」「ただ聴く」「一方的に返答する」式の、往復書簡型コミュニケーションなのだ、少なくともぼくの実感としては。


普段から「おれの意見」をばんばん押し通す人にとっては、Zoomでも十分なんだろうけど、そうじゃないぼくみたいな人間にとってはやっぱり対面してのミーティングのほうがいいなー、と思ったのでした。面倒なことがいろいろあったとしてもね。


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