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特上よりもたいせつな「並」の味。

10年ほど前、ある高名な料理評論家の方に取材させていただいた。

はじめてのお店に行くとき彼は、ひとつのルールを守っているのだという。たとえば懐石料理のお店で、コースが「松」「竹」「梅」に分かれていたとする。このとき彼は、それがどんな値段であろうとかならず「梅」を選ぶのだそうだ。あるいはとんかつ屋さんで「特上」「上」「並」の定食がそれぞれあった場合、決まって「並」を注文する。いちばん安価なコースを選択する。

「店主が『特上』と謳っている肉がうまいなんて、当たり前のことなんですよ。ほんとうにそのお店の〝仕事〟が知りたければ、どうでもいい一見さんとして、ぞんざいに扱われながら『並』を頼むのがいちばんなんです」

彼は、そんなふうに言っていた。「並」や「梅」がちゃんとおいしければ、再訪する価値があるし、そこで手を抜いているような店はいずれ駄目になると。おそらく彼には、「並」や「梅」に隠された〝仕事〟を見抜くだけの自信があったのだろう。


ぼくが毎日書いているこの note は、まったくもって「特上」ではない。ろくに構成も考えないまま下書きなしでいきなり書いているし、推敲することもしていない。そこには当然「毎日書いてるんだし、大目にみてね」や「そもそも無料のブログなんだし、細かいこと言わないでね」のエクスキューズがあるのだけど、それでも「並」のとんかつにそのお店の力量があらわれるように、勢いに任せて書き散らした note にも書き手の力量があらわれてしまうのかもしれない。そしてそこであらわれる力量とは、技術というよりも「姿勢」や「態度」に近いものなのかもしれない。


毎日だらだらと書いている note ですが、そのだらだらなさまのなかに「わたし」が見え隠れしているんですよね、きっと。