今年はひとを募集します(たぶん)。
最近、そろそろもうひとり社員を募集しようかなあ、と思っています。経理のスタッフとかではなく、あたらしいライターさんを募集しようかなあ、と。
そんな余裕あるのかよ?という冷静なツッコミを入れる自分もいるのですが、余裕なんていつまで待ってもやってこないぞ、と睨みつける自分もいて。
人を雇うってことを考える際、いちばん指針にしているのは、糸井重里さんがピースオブケイクの加藤貞顕さんに語った言葉です。
加藤 たとえば糸井さんの目から見て、イマイチな企画や原稿が上がってきたときどうしているのか。どうやって船型の組織を運営しているのか、ぜひ教えていただきたいんです。
糸井 悩むところですよね、うん。
加藤 とくにクリエイティブな部分になると、かなり組織化がむずかしい気がして。
糸井 そこはね……。
加藤 はい。
糸井 ……ずばり、加藤さんが「弟子」と「社員」とを、ごっちゃにしてるんじゃないですか?
「糸井さん、ぜんぶ聞いてもいいですか?」 第8回 社員を育てる、ということ より
ライターは、どうしようもないくらいに属人的な仕事です。クリエイティブが問われる仕事と言ってもいいでしょう。でも、そこでぼくが徒弟制度のように「弟子」をとってしまったら、いろんな歯車がくるっちゃうんですよね。
師匠と弟子になった場合、たぶん師匠は「おれのコピー」を弟子に求めるのだと思います。なにを見て、なにを美しいと思い、なにを嫌悪するのか。そしてなにをおもしろがって、なにに涙するのか。このへんのすべてを一致させたくなるんだと思うんです。
そこで「この本を読め」「この映画を観ろ」「あの芝居を観てこい」と、自分の人生をなぞらせるようなところから指導をはじめる。こうした感性が一致しないかぎり、伝承なんてありえないと思ってしまう。
でも、そうやって「お勉強」として鑑賞した作品について、弟子が「おれ」と同じ感動を味わってくれることなんて、ありえるはずがないんです。むしろ同じものを観たときほど、「おれ」と「お前」の差異が明らかになる。師匠とすれば、お前は河馬かひょうたんか、になってしまう。これ、師匠と弟子の関係にありがちな罠だと思っています。
そうじゃなくって、おれのコピーになるはずもない「お前」を受け入れ、尊重できたときにはじめて「社員」という言葉が出てくるんですよね、きっと。
だって、ほんとの弟子だったら、お給料さえ払わないもん。むしろ、こっちが指導料をもらいたいくらいですからね。うん、ぼくが天狗の鼻を伸ばして弟子をとることがあるとすれば、お給料は払わず、指導料を徴収するんじゃないかなあ。ときどきお小遣いをあげたりしながら。
じゃあ、社員になにを教えるのか。
これはもう、自動車教習所レベルの技術であり、職業人としての姿勢であり、圧倒的な数の「不正解」です。
正解はわかんないけど、いま書いてるそれは間違いなく不正解だよ。だって、これこれこうだよね。おれだったらこんなふうに書くだろうけど、それはおれにとっての正解であって、あなたにとっての正解は別にあるはずだからね。
そこまでだったら、たしかな言葉として言える気がします。
まあ、実際にいつ募集をかけるのか全然わからないんですが、今年はもう少し「こんな会社があるんですよ」の活動にも力を入れていこうと思っています。