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「言わずもがな」を掘りかえす。

問題は「言わずもがな」である。

なんの話か?

原稿の話である。文章を通じて、なにかを伝えるときの話である。

それがどんなテーマであれ、原稿を書いていると「言わずもがな」な事象に触れざるをえないことが多々ある。

「言わずもがな」とは、文字通りに「言うまでもない話」であり、そこでうろうろしてると読者は退屈してしまう。というか、書いてるこちらが退屈してしまうし、そんなものすっ飛ばして書いたほうが気持ちいい。

しかし「これは『言わずもがな』だから」と、省略した事象の多くは、読み手にとっても書き手にとっても、「わかったつもりになってること」である場合が意外と多い。

なんとなくわかったつもりになっていて、なんとなく知ってるつもりになっていて、それを誰かに訊くこともせず過ごしてきて、勝手に「言わずもがな」だと思っている。ぼくも含めた書き手の多くは、そういう「ぼんやりした知識」をぼんやりしたまま、あたまのなかにしまっている。

そういう「言わずもがな」と思っていたサムシングに、疑いのまなざしを向けること。自分の薄っぺらい知識に、疑いの目を向けること。いまさら誰も調べないような事象をもう一度調べ、もう一度自分のことばで了解しようとすること。

その手間をサボらなければ、多くのひとのうすら暗い「わかったつもり」に光を当て、本論とは外れたところの文章に、あたらしい知を吹き込むことができる。起承転結めいた流れでいうなら、抜群におもしろい「起」を設けることができる。

本を読むこと、長い文章を読むことの醍醐味は、意外と「起」の部分にあるのではないか。「言わずもがな」と思っていたことにあるのではないか。


まだまとまった考えではないのだけど、そんなことを思っています。