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気を配ろうとした結果のウソ。

何事にだって例外はある。

そんな当たり前の原則を(当たり前のこととして)あえて言及しないまま、物事はふつう語られる。たとえばの話、「福岡県民はとんこつラーメンを愛している」と言ったときにも、そりゃあ福岡にだって醤油ラーメンが好きな人もいれば、ラーメンそのものを忌避する人だっている。当たり前である。それでもまあ、総じて福岡の人はとんこつラーメンを愛していますよね、というのが前言の大意である。

ところがここに、わざわざ「福岡にだって醤油ラーメンが好きな人はいます!」「福岡のほんとうを知らないで勝手なことを言わないでください!」的な例外を指摘してまわるカルチャーが、この10年〜15年のあいだに定着したような気がする。場としては、圧倒的にウェブ空間において。さらに言えばそのほとんどがソーシャルメディア上において。

もし、これらの声にいちいち応えようと思うなら、ほぼすべての文の末尾に(※ただし例外はあります)との断り書きを入れなければならなくなる。

で、さすがにそれはためらわれるので、「福岡県民は、他の県民と比べて、とんこつラーメンを愛する人たちが多いようだと言われています」みたいな表現に逃げる。ところがこうして(一見)丁寧に書いた文は、かえってウソが混入しやすくなる。つまり「他の県民と比べて」の一節が、具体的にどこの県民と比較した話なのか。それはほんとうにデータがとられたものなのか。あるいは「多いようだと言われています」なんて書いているけれど、その伝聞はほんとうなのか。ほんとうに、誰かがそう言っているのを聞いたり読んだりした上での言葉なのか。もしかしたら自説に沿った「世間の声」を捏造してるんじゃないのか、などなど。

要するに、「福岡県民はとんこつラーメンを愛している」という乱暴な断言のほうが、じつはウソを含まぬ「おれの意見」であったりするのである。


揚げ足を取りにかかる人の多い世の中だからこそ、「おれの意見」や「おれの主観」が大事になると思うのだ。