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誤読と失念、わたしの声。

誤謬、ということばがある。

あやまり、まちがい。または論理的な誤りを含む推理。広辞苑はそう教えてくれる。誤謬と書いて「ごびゅう」と読む。哲学や現代思想など、むつかしめの本を読んでいるとしばしば遭遇することばだ。慣れ親しんだことばだとさえ言える。けれどもぼくは20代のころ、これをずっと「ごびゆう」と読んでいた。

理由はいろいろ考えられる。たとえば文庫本のなかに、誤謬ということばが出てくる。そこにはやさしく、ふりがなが振ってある。しかし文庫本のルビという文字スペースの関係上、それが拗音の「びゅ」なのか、ふつうの「びゆ」なのか、判別がむつかしい。そもそも「謬」という漢字をほかで読んだおぼえがない。結果、なんとなく響きから「ごびゆう」と読んでしまう。

なんてプロセスも当然考えられるのだけど、最大の理由はそこじゃない。

ひと言でいって、ぼくは誤謬ということばを、会話のなかで口にしたことがなかったのだ。あるいはまた、誤謬の語が行き交う会話を交わしたことがなかったのだ。そういう友だちを、先輩を、さらには先生を、持っていなかったのだ。

ほかにもぼくは、(ムーミンの作者)トーベ・ヤンソンのことを「トーヤ・ベンソン」だと思っていたし、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を「ゴトーを待ちながら」と読んでいた。現代思想系の本でしばしば見かける「エクリチュール」なる語も、しばらく「エリクチュール」と読んでしまっていた。いずれも、黙読するばかりでそれを声に出してこなかったし、文字以外で触れる機会のなかったことばだからだ。


で、これに関連して最近気づいたことがある。

ぼくはどうにも人の名前を憶えきれず、顔と名前が一致せず、これまで数々の無礼を働いてきたのだけれども、それもやっぱり声なんじゃないか。つまり、初対面の人と話すとき、意識してその人の名前を口にしていけば、その後も忘れないのではないか。顔と名前が一致するのではないか。

これからはなるべく、相手の名前を声に出しながら会話していこう。