見出し画像

わたしはズボンをもっていない。

みんな「ズボン」を穿いている。

そう気づいたのは、いったいどれくらい前のことだっただろう。いまどきの人は「ズボン」などと呼ばずそれを「パンツ」と呼んでいる、なんてツッコミはもう20年以上も前から聞き飽きた話で、どうだってよろしい。いまでもぼくは、胸を張ってそれを「ズボン」と呼ぶ。両の足を別個に通す穿きもののことを、そう呼ぶのではない。「ジーンズ以外のパンツ」のことを、ぼくは「ズボン」と呼び、世のなかの成人男子たちはけっこうな割合でそうした「ズボン」を穿いているのだ。

クローゼットの肥やしとなっているものを含めれば、たぶんぼくは数十本のジーンズを持っている。そのうち「いまのお気に入り」の5本くらいをローテーションで、毎日穿いている。同じ品番のジーンズも多々あるし、破れたわけでもないのにまた今後、同じようなジーンズをたくさん買っていくのだろう。別にヴィンテージの収集家というわけでもなく。

さて。そんなぼくは「ジーンズ以外のパンツ」を、ほとんど持っていない。というかそもそも、ズボンの善し悪しを判断する眼を持ち合わせていない。チノパンやカーゴパンツのように見た目や名前がわかりやすいズボンならともかく、名づけようのない普通のズボンについて、どれを選べばいいのかまるでわからない。


似たような話でいうとむかし、ぼくは「少女漫画」がぜんぶ一緒に見えていた。なにをもって少女漫画と呼ぶのかはいろんな定義があるのだろうけれど、当時のぼくにとっては「女性漫画家が女性漫画誌に描いた作品」はすべて少女漫画であり、扱われる題材や絵のタッチ、表現手法に不慣れなぶん、どこからどう手をつければいいのかさっぱりわからずにいた。けっきょく高校生のころに読んだ岡崎京子さんの作品をきっかけに、少しずつ少女漫画のハードルを乗り越えていった。というかそれは、こころのなかで勝手にでっち上げていた「少女漫画」というジャンルやその壁を、解体させていくような作業だった。

なかったのだ、ぼくの思っていた「少女漫画」という枠なんて、そもそも。


という経験を踏まえて考えると、たぶん「ズボン」も存在しない。少なくともその定義は「ジーンズ以外のパンツ」ではない。ぼくはおじいちゃんになってもジーンズを穿くだろうけれど、そうでないパンツもしっかり善し悪しを見極めた上で穿ける男になりたいなあ、と強く思う。

—— —— ——

ひさしぶりに穿いたブラックジーンズの話を書こうとしたら、ぜんぜんそこにたどり着けないままこんな話になりました。むかしは避けてたんですよねえ、ブラックジーンズ。なんとなく、「タイトなブラックジーンズ=パンク少年」なイメージがあって、おれはパンクは認めんぞ、な正体不明の気概があって。いまは素直に、ブラックジーンズ穿けています。

犬の毛が目立ってしょうがないんですけどね。