見出し画像

そういえば赤坂。おれの赤坂。

もの忘れの激しさは、ときに失礼を呼ぶ。

あれはいつのことだっただろうか。たしか30歳になる前くらいのころ、編集者のおじさんと一緒に、赤坂まで行く用事があった。用事の前だったか後だったか、おじさんは「赤坂に来たら、ここに行かなきゃ」みたいな感じで、天ぷら屋さんに連れて行ってくれた。ビルの二階の、狭苦しいお店だ。そこで食べたかきあげ丼は、人生ナンバーワンのうまさだった。あれほどにもおいしい天ぷら、かきあげ丼は、いまなお口にすることができていない。

以上の諸々について、ぼくは相当おおくのことを失念している。

まず、天ぷら屋さんの正確な場所や店名を憶えていない。赤坂のどこかで、たしか日枝神社の前を通ったような気がするのだけれど、まったく定かではない。そして自分の年齢も、かなり当てずっぽうにしか憶えていない。30歳前後であろうことは、記憶というよりも状況証拠(おじさん編集者と赤坂に出かけたこと)からの推察である。さらにまた、なんの仕事で赤坂に出かけたのか、さっぱり憶えていない。編集者と一緒なのだからきっと取材なんだろうけど、赤坂でなにを取材したのか。誰に取材したのか。思い当たるフシが、まるでない。そして心底おそろしいことに、おじさん編集者が誰だったのかも、憶えていない。おじさんであったこと、「さすがにいい店知ってんなー」と感心したこと、「やばいっすね、ここのかきあげ!」などと騒ぐほどには親密な仲ではなく、こころ静かに(やべえ、まじうめえ)とひとり興奮していたこと、などしか憶えていない。失礼にもほどがある男だ。


2年前、われらが株式会社バトンズは、渋谷から青山一丁目に引越した。最寄りの駅は青山一丁目で、駅徒歩2分の好立地なれど、住所は赤坂八丁目である。「ああ、赤坂に引越すのかあ」。2年前のぼくは当然のように、あの日のかきあげ丼を思い出した。「きっと探しに行くよなあ」「できれば常連になりたいなあ」「あのかきあげ丼、いろんな人に教えたいなあ」なんてことを思っていたのだけれど、結局探し当てられないまま今日に至っている。

もうすぐ本の推敲も(ほんとに)終わる。終わったらぜひ、あの天ぷら屋を探す旅に出よう。

もう一度かきあげ丼を食べれば、おじさんの顔も思い出すかもしれない。