見出し画像

Tシャツというメディア。

例年5月って、こんな感じだったっけなあ。

ここ数日、もうすっかり夏の陽気である。春物として買いためていた幾枚かの服たちは、このまま秋までクローゼットに閉じ込めておくしかなさそうである。なので仕方がない、こころが疲れたときのショッピングサイトめぐりを趣味とするぼくは、最近ひたすらナイスなTシャツを探している。

そもそもTシャツは、かなり不思議なアイテムだ。伏せ字混じりの扇情的な文言が印刷されたり、写真やキャラクターがプリントされたり、ウィットやブラックユーモアが表現されていたり、どこかポスターにも似た性質を持っている。どんなTシャツを着るかは「わたしはどんな人間であるか」の表明でもあるわけで、つまりTシャツはメディアなのだ。

で、定期的にぼくは自分の好きなミュージシャンのTシャツを探す。「わたしはこういう人間です」のメッセージを込めながら、同時にファッション的観点からも普段着になりうるものを探す。

ところがどういうわけかロックなミュージシャンのTシャツは、黒地にぶかぶかのアメリカンサイズであることがほとんどで、仮にプリントされた柄がすてきであっても、なかなか手を伸ばしづらい。黒系の服がさほど好きでないことに加え、黒や濃紺は自宅にいるとかならず付着する犬の毛が目立ってしょうがないのだ。いや、これだけ黒が売られているということは、ちゃんと需要がある証拠なんだろうけども。

あるいはまた、バンドTシャツ以外を探してみたときにも、デザイン的には大好きなんだけれど、そこにプリントされた英文が、その文言やモチーフが恥ずかしくてしょうがない、というTシャツはかなり多い。メディアとしてのTシャツの、困ったポイントである。


結果的に最近、無地のTシャツを買うことが増えてきた。もうTシャツを通じて「わたし」のアティチュードを表現する年齢でもないのかもしれない。……と思いつつ、「ヘインズしか着ないおれ」という表現にもまた抵抗したくなる面倒くさいおれにぴったりなTシャツは、いったいどこにあるのだろうか。