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ぶったまげた『成りあがり』。

ほぼ日刊イトイ新聞が、21周年を迎えたのだそうだ。

その記念コンテンツとして、本日から矢沢永吉さんと糸井重里さんの対談がはじまった。なんにも語っていないに等しい第一回なのに、もうおかしい。わくわくするし、このままどこかへ連れていってほしいと思う。

矢沢さんと糸井さんといえば、やっぱり『成りあがり』だ。あまりにも有名すぎて、あまりにも先入観がつよすぎて、まだちゃんと読んでいない、という人は意外と多いんじゃないかと思う。じつを言うと以前のぼくもそうだった。この本を読んだのは、ライターの仕事をはじめて数年が過ぎた、20代の終わりだったと記憶している。

ぶったまげた。

いま読み返しても、そのたびにぶったまげる。どうやったらこんな本ができるのか、まるで見当がつかず途方に暮れてしまう。

この本の存在は、小学生のころから知っていた。小学生にとっての矢沢永吉は、たとえていうなら煙草のような人だった。お兄ちゃんたちが愛好するのはいいけれど、ぼくらはまだ触れてはいけないもの。そういう象徴として、「永ちゃん」があった。

中学になると、その認識が少し変わる。不良の友だちが——たぶん先輩に教えられたのだろう——永ちゃんを聴きはじめた。シブイよね。みたいなことを言っていた。

不良の家にあそびにいくと、洋酒の瓶が置いてあり、煙草と灰皿が置いてあり、シンナーの缶が置いてあり、所属する暴走族の旗が壁に掲げられ、その下にはかならず『成りあがり』が置かれていた。マンガとエロ本しか置かれていない乱雑な部屋に、唯一置かれた本が、『成りあがり』だった。


おとなになって、ライターとして本をつくるようになって、ぼくが『成りあがり』を手に取った最大の理由は、あのときの風景を思い出したからだ。

あの部屋に置かれてしまう本、あの部屋の住人たちを夢中にさせてしまう本って、いったいどんな本なんだ? 職業的好奇心として、手に取った。


読んでもう、ぶったまげた。


自由詩のようで、ダベリのようで、シャウトのようで、映画というより写真のようで、ひと言でいえばひたすら告白の文学で、それまでぼんやり「不良のバイブル」くらいに考えていた自分が恥ずかしくなるような、すさまじい本だった。

なかなか言う機会がないけれど、ぜひともたくさんの人に読んでほしい本なんだよなあ、『成りあがり』。

ぼくはいまでも読み返しています。