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古賀史健

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古賀史健の note、2018年以降のぜんぶです。それ以前のものは、まとめ損ねました。
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2019年6月の記事一覧

三番目のごほうび。

三番目のごほうび。

ぼくらはみんな、息をしている。

心臓も動いているし、血液もめぐっている。だからいまも命が続いている。息が止まったり、心臓が止まったり、血液が止まったりすることはふつう、死を意味する。人工呼吸、心臓マッサージ、輸血などはその代替手段だ。命を止めないために、やることだ。

心臓の動きについて、ぼくらにできることはほとんどない。

自律神経の名があらわすように、ぼくらの意識とは離れたところで心臓は、脈

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ここだけの話をする、ここだけのおれ。

ここだけの話をする、ここだけのおれ。

彼はそれを、「古賀語録」と呼ぶ。

人間のどうしようもない習性としてぼくは、気のおけない仲間たちとの酒の席で、少し気がおおきくなる。「ここだけの話」をする「ここだけのおれ」がいる。最近はお酒を飲む機会そのものが減ってしまったとはいえ、いまでもその習性は変わっていない。へろへろに疲れたときにお酒を飲んだりすると、すぐさま「ここだけのおれ」が現れる。

編集者の柿内芳文氏は、そんな「ここだけのおれ」が

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禁句とボキャブラリーの関係。

禁句とボキャブラリーの関係。

ボキャブラリーは、多いほうがいいと思う。

知識や教養を誇示するものとしてではなく、表現力を高めるためでもなく、自分のあたまを揉みほぐすために、手持ちのボキャブラリーは多いほうがいいと思う。多い自分であったほうがいいと思う。

ボキャブラリーを増やす方法は、わりと簡単だ。自分のなかに、いくつもの禁句を設ければいいのである。

たとえば、「ものすごく」ということばを禁句にする。なにがあっても使わない

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キャッチボールの教訓。

キャッチボールの教訓。

十数年前に一度だけ、草野球の試合に呼ばれたことがある。

映画監督、デザイナー、ウェブディレクターなど、およそ健康とは縁遠い人びとの集う、目の下がクマだらけのチームだった。対戦相手は毎週のように試合をこなす、本気の草野球チーム。勝敗はおぼえていないものの、勝ったりよろこんだりの記憶がまるでないので、予想どおりにボロ負けだったのだろう。おぼえているのは一打席だけツーベースヒットを打ったことと、試合前

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成長とは、マイルールの獲得なのか。

成長とは、マイルールの獲得なのか。

どうしてこうなっちゃったんだろう。

教えたおぼえもないのにいつの間にか、彼はそうしている。彼がそうするから、合わせてこちらもそれを尊重している。もしかしたら彼のほうも、同じことを思っているのかもしれない。いつの間にかこんなルールができちゃったけれど、なんでだろ? と不思議に思っているのかもしれない。

わが家の犬のことである。

いつのころからか犬が、ごはんを食べ終わった合図として器をくわえて持

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なんでもない金曜日に。

なんでもない金曜日に。

金曜日である。

タクシーに乗ると、いまでも「きょうはハナキンですからね〜」なんて語りかけてくる運転手さんがいる。ちゃんとした会社で働いた経験を持たないぼくは、ハナキンが古い流行語なのか、それとも一般企業にはいまでも残ることばなのか、じつをいうとよく知らない。もっと情けない話をするなら、部長、課長、係長、の位はわかっているけれど、そこに専務や常務や次長などが入ってくると、どういう順に偉いのか、よく

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ふたりの編集者との会話。

ふたりの編集者との会話。

あなたはいま、疲れている。

はじめてそんな指摘を受けたのは、いまから十数年前、2006年のことだった。記録を見るとその年、ぼくは15冊の本を書いている。そこに加えて5冊ほど、つまり年間20冊ぶんの仕事を入れていた。それ以外の働きかたを知らなかったし、ベストセラーといわれるような本を何冊も手掛け、おおきな企画も舞い込み、たぶん売れっ子になっているような錯覚もあった。

そんな矢先、ひさしぶりに取材

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眠たいときに、眠たいことを。

眠たいときに、眠たいことを。

多くの福岡人がそうであるように、ぼくは関西が苦手である。

関西に行くとたのしいし、ごはんもおいしい。いい人も多いし、たいていのものは揃っている。住めば都なんだろうなー、とは思う。けれども苦手意識が拭えない理由は、以前「アメトーーク!」の企画プレゼン回で博多大吉氏が提案していたくくり、そのひと言に尽きる。

すなわち、「関西こわい芸人」である。

世間の人たちから見ると、きっと福岡もこわい。暴力団

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こんな感じの火曜日を。

こんな感じの火曜日を。

思いつくままの断片的なことどもを。

【坊主にあこがれる】
これくらいの季節になると、毎年のように頭を丸めたくなる。丸坊主にしたくなる。丸坊主だったら、いろんな面倒が解消されるよなあ、と思う。それでもぼくが頭を丸めないのは、似合わないことがわかっているからだ。ぼくは中学時代、学校の校則により丸坊主だった。人には頭のかたちがそれぞれにあり、顔のかたちがそれぞれにある。当時のぼくは、童顔の大木金太郎と

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ビッグ3の一人称。

ビッグ3の一人称。

以前、プロゴルファーの青木功さんに取材したことがある。

正確にいうと、編集者の佐渡島庸平さんが青木功さんに取材し、その音源をもらって原稿にまとめたことがある。その日ぼくは別の取材が入っていて、どうしても同行できなかったのだ。とてもおもしろい取材だった。いっぺんで青木功さんのファンになった。

話が熱を帯びてくると、青木さんは一人称を「アオキ」に変えて語りだす。「そんなアオキの姿を見て、コンチクシ

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首を痛めて思い出したこと。

首を痛めて思い出したこと。

おそらく寝違えてしまったのだろう。

数日前から、首が痛い。たかが首を痛めたくらいでこんなにも、とおどろいてしまうが、てきめんに調子を崩している。けれどもまあ、首をくくれば命を落とすのだし、脳からの命令はぜんぶ首を経由して全身に伝わっているわけだし、おおきな頭を支えているのだって首なのだし、社長にそう告げられて失職の憂き目に遭うことばも首なのだ。うん、首は大事だ。

にもかかわらず、人間も犬猫もほ

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完成度と、野放図さ。

完成度と、野放図さ。

むかし、ある直木賞作家に取材したときのこと。

語るべきことは語り終え、聞くべきこともほとんど聞き終えた取材の終盤、本題から二歩も三歩も距離を置き、「もうひとつ、なにか」が出ないか探り合う、終盤特有の湯上がりみたいなゆるゆるした時間をたのしんでいた。

どういうきっかけだったか忘れたが、話はマンガに移っていった。ほかの国のことはどうだか知らないけれど、少なくとも日本のマンガ家たちは小説家よりずっと

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お知らせに添えて。

お知らせに添えて。

時代は変わる。

ボブ・ディランの歌の話ではなく、改元の話でもなく、ほんとうに時代は変わっていく。ぼく自身にコンプレックスがあるからだろう、最近まったく時代は変わっちゃったよなあ、と思うのは「歯」である。テレビやウェブ記事に登場する芸能人、スポーツ選手などを見ていると、みんなほれぼれするくらいに歯ならびがいい。もともとそういう歯ならびの人もいるだろうけど、歯列矯正をした人だって多いと思う。時代は変

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こんな話、するつもりじゃなかった。

こんな話、するつもりじゃなかった。

きょうの note、犬の話でもしようかな。

そう思ったときのぼくは、書くことが浮かばずにいる。なんにも思いつかないけれど、犬の話だったらまあ、いくらでも書ける。読む人を不快にさせたり、自分がイライラしたりすることなく、さらっと書ける。ぼくにとっては「犬の話」「さっき食べた昼飯の話」「クラプトンやストーンズの話」などがそれにあたる。しばしば書いてしまう話ではあるものの、できるだけそこに流されないよ

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