古賀史健
記事一覧
『さみしい夜にはペンを持て』刊行のおしらせ。
7月18日(火)、あたらしい本が世に出ます。
タイトルは『さみしい夜にはペンを持て』。ぼくにとってはじめての、中学生に向けた本です。どんな本なのか、どういう意味のタイトルなのか、なぜ中学生に向けてつくったのか。お話ししたいことはたくさんあります。少し長くなるかもしれませんが、お付き合いください。
どんな本なのか本が好きな人ならだれでも、本によって救われた経験があると思います。
ひどく落ち込ん
書き手にとってのおしゃべりとは。
おしゃべりのありがたさを考える。
ぼくはライターであり、書くことを職業とする人間だ。実際にいまもこうして、お金にもならない文章をつらつらと書いている。書くことを苦にしないし、むしろ好きだったりする。
そしてどうして書くことが好きなのかと問われた際には、「話すのが苦手だから」と答えたりする。対面するとうまく話せない。緊張のあまり思ったことがことばにできない。家に帰ってから「ああ言えばよかった」「
正解がない時代って言うけれど。
まったく知らないことばかりだなあ、と思う。
本を読むとき、新聞を読むとき、報道番組を見るとき、いつも「知らないこと」の多さにあきれかえる。たとえば「税制がこんなふうに変わる」みたいなニュースがあったとして、しかもそれについて「もう知ってるよ」と思っていたとして、解説記事を読めばちゃんとしっかり「ぼんやりとしか知らなかったこと」が書いてある。つまり、知らなかったわけだ。
そして途方に暮れてしまう
「最近の若いもんは」と「わしらの若いころは」。
いつの時代にも「最近の若いもんは」と語る人はいる。
現在も、20年前も、そして100年前や1000年前にも「最近の若いもん」は、似たような理由で責められている。常識を知らないとか、礼儀がなっていないとか、やる気がないとか、なにを考えているかわからないとか、そういう責められ方を、ずっとしている。
同様に、いつの時代もセットのように語られてきたであろう話が、「わしらが若いころは」である。
「わし
書いているとしか言えない自分。
いま、本を書いている。
それが仕事だ。なにも特別なことじゃない。料理人がオムレツをつくるように、漁師がイワシを獲るように、そしてキース・リチャーズがギターを弾くように、ぼくも本を書いている。お互い、そういう仕事に就いているだけの話だ。
しかしぼくの場合、365日の毎日、ずっと本を書いているわけではない。
構想を練るとか、編集者さんと話し合うとか、集めた資料を読み込むとか、取材をするとか、それ
鬼よりも悪魔よりも恐ろしいもの。
日常のなかで「悪魔」ということばは、なかなか使わない。
悪魔を使わないぶん日本人は、「鬼」を使う。むかし話にも多数登場する鬼は、なんとなく日本版の悪魔と言えなくもない。しかし、どうなんだろう。西洋の言語に暗いぼくはよく知らないのだけれど、たとえば「練習の鬼」とか「鬼教官」みたいな用法は、西洋の悪魔にもあるのだろうか。「あいつは練習の悪魔だぜ」「ジーザス、なんて悪魔教官なんだ」なんてことを、あちら
うどんとラーメンの境界線。
ラーメンとは、ふしぎな食べものである。
多くの日本人がそうであるように、ぼくにも突然に湧き上がるラーメン欲、みたいなものがある。無性にラーメンが食べたい、なんとしてもラーメンが食べたい、どこのお店でもいいからとりあえずラーメンが食べたい、という欲求である。
そしてこの欲求は、どこのどんなラーメンを食べても最低限は満たされる。すっきりとした醤油ラーメンでも、野菜たっぷりのタンメンでも、濃厚な魚介
知らないことを知らないと知らないままに。
知らないことを知らないと言える人になりなさい。
大切なアドバイスである。人はどうしても背伸びをしたがる性質があるものだし、たとえば知っているふりをして聞いたほうが話の腰を折らずに済む、という判断もときにはあるだろう。それでもやはり、正直な「知りません」や「教えてください」を言える人であったほうがいい。これは——少なくとも理屈や理想論としては——多くの方々が納得してくれる話だと思う。
一方で、し
「とりあえずnoteを書いてみなよ」
noteのサービス開始から10年が経ったのだそうだ。
当時のことはよく憶えている。現在のnote社にもちょいちょい顔を出していたし、毎週のように加藤さんと会っていた。今度こんなことをはじめようと思っている。いまこんな本をつくっている。一緒にこんな本をつくろう。そういう話を、会うたびにしていた。
その「毎週会う」のサイクルが途切れたのは、思えばコロナ禍だった。なるほどあそこで途切れてしまった流れ
回らない首で考えるお金の話。
数日前に寝違えて以来、文字どおりに首が回らなくなった。
「借金で首が回らない」ということばはたぶん、首が回らないほどの重荷を背負っているとか、首を回すほどの余裕もないとか、首を回せば(余計なことをすれば)借金取りに見つかってしまうとか、本来そういう意味なのだと思う。しかしながら実際に首が回らなくなると「ものすごくつらい」し、「つねに緊張状態が続く」し、「ほかとはぜんぜん違う種類の激痛が走る」。な
諸行無常とマイブーム。
中学時代、まったく古文に熱心な生徒ではなかった。
それでも平家物語で知った「諸行無常」と「盛者必衰」というふたつのことばは、なんだかやけに耳に残り、心に残っていた。意味なんて、ほんとうのところではまるでわかっていない。お勉強として暗記した辞書的な「正解」を知っているだけで、腹のところでどっしりわかるには、中学生の自分はあまりに若すぎた。
数年前に、四六時中考えていたこと。十年前に、これは自分の
安静にしなさい、の意味。
かつてないほど盛大に、首を寝違えた。
目が覚めたとき、最初は頭痛かと思った。
しかし頭痛にしては痛みが局所的で、外傷的だ。頭の内側からずんずんする頭痛とは、痛みの震源地が異なっている。
そして次には、首に「こぶ」ができたのかと思った。イメージとしてはゴルフボールくらい、もしかするとテニスボールくらいの硬い「こぶ」。それが首の左後ろに貼りついている感じが、物理的な違和感が、たしかにあった。けれ
卒業よりもたいへんな入学と入社。
入学式、入社式のシーズンである。
多くの人がそうであるように、これまでにぼくは小学校、中学校、高校、そして大学で、入学式を経験している。また新卒で入った会社でも、入社式は執りおこなわれた。当時は濃紺のリクルートスーツという概念がまだ定着しておらず、うぐいす色のスーツで参加したことをよく憶えている。福岡県民御用達、「紳士服のフタタ」で購入したぺらぺらのスーツだ。
基本的に入学式や入社式は、知らな
忘れてなかった顔と名前。
もの忘れの激しい人間である。
名刺交換をした相手はおろか、一緒にお酒を飲んでたのしくしゃべったはずの人、なんなら一緒に仕事をした人の顔や名前さえ、忘れることがある。とくに最近多いのは、直接に対面した際、ソーシャルメディア上のアイコンは浮かぶものの名前が出てこない、というパターンだ。まったく失礼な男だと自分でも思うし、どうにかして改めたい。
先日、新聞のとある経済記事を読んでいた。読んでいたと言
書いておかないと確実に忘れてしまうもの。
昼ごはんを食べていた。
そりゃあ昼ごはんくらい毎日食うだろう。と自分でも思うので書き足すと、六本木ヒルズで昼ごはんを食べていた。こう書くと、すこし「ほう」と興味をもってもらえる。平日の昼間に、しかも六本木ヒルズでランチだなんて、お前どうしたんだ。たしかに六本木ヒルズはただの建築物・商業施設であることを超えた、シンボル性みたいなものが込められたワードだ。
しかし期待を裏切るかもしれない話をすると
行きずりの読書にならないために。
古典とはなにか。どんな本のことを古典と呼ぶのか。
むかしに出版されていれば古典、というわけではなかろう。たとえばぼくは小学生のころ、アブドーラ・ザ・ブッチャー著の『プロレスを10倍楽しく見る方法』という本をたいへんおもしろく読んだ。けれども40年以上の時を経た現在、同書が古典として扱われているかといえば、まったくそんなことはない。
では、内容なのか。つまり、人生や学問や芸術や労働や恋愛などにつ