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神さまは何もしてくれないけれど

ふだん、というか毎日だけど、ほぼ一日中仕事で言葉に触れてるのに、それでもまだ言葉を探してしまう。

職業病なんだろうか。よくわからない。それも、ふつうに生きてる人のなんでもないひと言みたいなのが読みたくなる。

SNSでべつにフォローもしていないけれど、何かのはずみで見えてしまう誰かの断片的な日常の断片的な言葉。

狙って書かれたようなものではなく、たぶん、書いたというかつぶやいた本人はもう忘れてしまってるような言葉。

岸政彦先生が言うところの「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れないもの」の妙なリアリティと所在の無さが気になるのだ。

最近も、こんなひと言が僕の心をとらえた。

神さまは何もしてくれないけど、コンビニとファミレスはマジで神。私にご飯食べさせてくれるから。


べつにコンビニやファミレスを神と思ってる人は珍しくもない。たしかに僕だって何度も助けられてる。

だけど、このつぶやきの冒頭の部分。「神さまは何もしてくれないけど」の突き放し方だ。ほんの一瞬、時間にすれば1秒にも満たないわずかな瞬間。そこに、この誰かの説明を拒否するようなリアリティがすごくある。

変なたとえだけど、部屋着で飲むミネラルウォーターのペットボトルぐらいの存在感を感じる。

詩のようでもあるけど、それは誰かの心を打つために放たれたものでもない。どこにも辿り着かないし、その続きがあるわけでもなく、ただ断片として浮かんでいる。

そんな言葉に触れると、ただ、それだけのことなのに読めてよかったなと思う。

少なくとも真冬の高尾山の頂上で、風に舞っている新聞紙のどうでもいいゴシップ記事の活字の切れ端を見るよりはいい。