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結局、ひとなんだと思う

話したいなと思うひとがいる。人種性別年齢趣味思想そういうの、まったく取り払って。

なんだろう。あたまで「このひとと話そうかどうしようか、なに話そうか」なんて考えるんじゃなくて、もっと根源的なところからくるもの。

たぶん、そういうひとって表面的なレイヤーでは、とくに共通するもの共有するものもないんだと思う。趣味が同じとか(そもそも僕の場合趣味がよくわかってない)、共通の知り合いがいるとか、仕事のつながりがあるとか。

むしろ、そういうのあってもなくても関係ないひとと、なにか話したくなる。

そうだな。話すなら、なにもない場所のほうがいいかもしれない。川べりとか、山頂とか、2年間1本のバスも来ないバス停とか。

世間一般では、共通するものがなにもない人となに話すんだろう。しかもそんな場所で退屈。無理と思われるのかもしれない。

だけど、別の見方をすれば同じ世界の人とずっと同じ話をしてるのだって、本質的にはなにも話してないのと同じかもしれない。

本当の意味で「話したいひと」って、どこの世界に属してるかはなにもなくて、仮にそのひとが「すごい世界」に属してたとしても、そのひと自身はすごくフラット。少なくとも僕にはそう見えるひと。

わりとどういうシチュエーションでも「ひと」「ひと」として話せるひととは、すごく話したくなる。

これでも一応、かなりコミュニケーション的にはバグの多いほうだって自分ではわかってるから、通常運転では「ひと」と話さなくても全然平気だ。それでも話したくなるひとって、やっぱりたまにいる。

まあ、なんだかんだずっと人の話を聞いて文章を書いてるのって、「ひと」が好きなんだろう。少なくとも嫌いではない。

ただ、表面的に何やってるとかとは別のレイヤーでその「ひと」が見えにくいひともいるし、もしかしたら自分だってそうなってるかもしれない。

それはちょっとかなしみだから、やっぱり話してること、書いてるものの中にちゃんと「自分」がいるのがいいし、そこをきれいごとにしないほうがいいんだろうな。