冗長性というバスに乗って
誰でも文章には「くせ」がある。意識して書かれるものもあるし、無意識で出てしまってるものもある。
僕の場合、文章が冗長になるくせがある。
よく考えたら「冗長」って、なんかすごい言葉というか字面だよね。冗談みたいに長いことになるんだろうか。
そもそも「冗」という漢字の成り立ちも、わかってるようでわかってない。そういう漢字のほうが多いけど。
古典漢語(漢文)の世界では、本職にあぶれた様子を表しているところから「冗」の字が出てきたようだ。ただ無駄な時間とか暇であるだけでなく、本職にあぶれてるというあたりがなんとなくもの哀しくて、やっぱり冗長ってよくないんだなとしんみりしていまう。
現代の「冗長」は、とくに文章において言われるときには「無駄に長い」「余計なものが多い」という意味だ。ネガティブ。なので、あなたの文章は冗長って言われたら、あまりいい感じにはならない。
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じゃあ、冗長はすべてにおいて悪なのかというとそうとも限らない。システムの世界なんかでは「冗長性」ってむちゃくちゃ重要だ。
この場合の「冗長」は良いほうの意味で、端的にいえば「何かあっても大丈夫なバックアップ(余分)が確保されてる」ことを指す。お世話になってるnoteのシステムだってAWSのMulti-AZなんかで「冗長性」が構築されてると思う(イメージ)。
でも文章の冗長は基本、嫌われる。
とくにいまは、ネット上で流れてくる文章の大半は「情報」なので、その情報が何なのか、自分にどうメリットがあるのか、何を得られるのか簡潔に理解できない文章は評判がよくない。
文章がバスという乗り物だとしたら、目的地がはっきりしてるのは当然で、乗りやすくて得るものが多い目的地に最短で連れて行ってくれればいい。
バスに乗ってる時間も途中の景色なんて誰も見ない。スマホいじってるかゲームしてるか寝てる。
それなのに僕のバスは冗長だから寄り道もするし、変なところ通るし、乗り心地も良くない。なんなら思ってた行き先と違う場所に到着したりもする。まあ、人気路線とは言えない。
なんか変なもの見れたね。あれ、なんだったんだろう。バスに乗ってた人たちがぼんやり思う頃、いつの間にかバスはどこかにたどり着く。
僕はバスの乗客をひっそりと見送る。みんながバスを降りて歩きはじめるとき、妙に目の前に広がる景色が「なんかいいもの」に思えたらいいなと思いながら。