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とりとめのない

書くことはいろいろある。主にiPhoneのメモに書いてる下書きを見たら559個あった。多いのか少ないのか。

けど、どの下書きもなんか「ちがう」って顔をしてる。そういう日がある。

書こうと思えば全然書けるんだけど。純粋に「仕事」だったら書く。でもnoteはそういうんじゃないし。

まあでも「生きることを仕事」と考えたら関係なく、noteを書くのも自分のための仕事ではあるんだけどね。

テーマで書くスイッチが入らないのはあれかもしれない。あれって何だ。まあ、あれです。

相変わらず書かないといけない原稿は積み上がってるし、地域のも含めて事務的な仕事とか考えないといけないあれこれもあるし、でもどれも平常運転ではない。どうしようか。

そんなのみんなそれぞれあると思うし、そんなこと言ってても仕方ないか淡々と生きてるけれども。

でもあれだよね。いまって、みんなの存在も見えるし感じられるんだけど、それぞれが離れ小島にいる感じ。泳いでいくにはちょっと微妙な距離だし、そこに船とかで行くには大げさすぎるしそもそも船なんてないしって感じ。

とりとめのないこと書いてるのわかってます。ふだん、あまりnoteでこういう感じに書かないから。たまに扉が開かれる「呑み書き」の日ぐらいしか。

なんでそれなのに、こういう感じで書いてんのか。

これもあれです。春風亭一之輔師匠の十日間連続落語生配信の影響。この前のnoteでもうっかり書いてしまったけど。


ほんと、ふだんテレビもリアルタイムで観ない生活なのに、この十日間ほぼ一之輔師匠の噺を生で聴いてる。

何が楽しみかというと、その日の師匠の「まくら」が聴きたい。

落語のまくらって、本編の噺に入る前の世間話というか小話というか、枕詞みたいな役割なんだけど一之輔師匠の場合(今回に限らずだけど)、ほんとにとりとめない話をするから楽しい。いい意味でどうでもいい話。東武線ユーザーの悲喜こもごもとかね。

ああ、そういう世界があったなぁって気持ちになれる。

どうでもいいとりとめのない話が戻って来る(この言い方も違和感あるけど)のはまだちょっと先っぽいけど、たまにはあえてそういう話もしたい。

といいつつ、あえてするものでもないんじゃないかってもうひとりの自分が突っ込んでくるのだけど。