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心が忙しくなる絵葉書

時間を感じさせてくれるものが好きだ。積み重なり、同時に流れていく「時間」というふしぎな存在。

飛んでいる矢は止まっているし、止まっている矢は捕まえることができない。

だから僕は時間のことを考えるとき、いつも自分がこの場にいてこの場にいない感覚に襲われる。たぶん、伝わらないこと言ってる。

まあ、だいたいいつも考えてることはおかしいのだけど、殊更、時間について羽が生えたみたいに考えてしまうのは、最近、ある仕事で「絵葉書」を読む時間が多いからだ。

「絵葉書」も、現代ではすごくふしぎなメディアかもしれない。コロタイプと呼ばれる写真製版をもとに彩色した独特の世界線で刷られたものはとくに。

その時代の絵葉書を読んでいると時間が、なんていうか流体のように感じる。なんだろう。流れてる時間に手を入れて掬い上げられそうな感覚。本やネットのメディアではそんなふうに感じないので、絵葉書独特な気がする。

資料として読んでいる絵葉書は、ある世界的な日本人アーティスト(日本では一部の研究者を除いて一般にはあまり知られていない)が海外から日本の関係者に宛てたもの。どれも本来なら博物館なんかの資料として収蔵されるようなものだ。

今回はちょっと違うかたちでのアーカイブ化に僕も携わらせてもらっていて、そのために貴重な絵葉書を読みこませてもらっている。もちろん関係者の許可を得て。

第一次世界大戦の幕に覆われた1910年代のドイツ(ドイツは絵葉書大国だった)、イギリス、そして大西洋を渡ったアメリカ・ニューヨークや大陸横断した先の1930年代、映画の都となったロサンゼルス。

どの絵葉書もアーティストの生々しい近況と共に、時間の粒が細かく漂っているのがわかる。ひどく懐かしいような、もう一度その場所に立ちたい気持ちになる。心が忙しくなる。そこに流れる時間に僕が存在していたはずもないのに。

これもおかしな話だ。僕はそもそもその時代に生きていない。

それでも時空を飛び越えて、僕の中に時間が流れ出すのは、きっとそのメディア、媒体が絵葉書だからだ。

で、ふと思うのは、この先もうこんな感覚を起させてくれるものはなかなか生まれないんだろうなということ。

デジタル的なメディア、デバイスだけになった「今」が100年先の「僕」の中で、同じように時間の粒を流してくれるだろうか。わからない。

それに、絵葉書という物理的メディアだから、100年の時を越えて第三者の僕がリアルに触れることができている。いや、そんなのこれからもっとテクノロジー的に進化して、アナログな皮膚感覚で触れられるデジタルな何かが誕生するかもしれない。それもわからない。

のだけど、この彩色絵葉書のようには想いを掻き回されないような気がする。