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溜まっていく本たちの後ろめたさ

僕の仕事デスクの背後には、仕事で読まなければいけない本コーナーというのがあって(勝手にそう呼んでる)そこには、いま数えたら11冊の本が控えている。

自分で買ったのもあるし、関係各所から資料本として送られてきたやつとかいろいろ。

あと個人的に読みたい本ももちろん控えてるけど、それらはテトリスの初期配置みたいになってて何十冊もあるので数えたくない。

いやまあ、本読むのが好きで、仕事の一環で読むことができて最終的にはそれで原稿書いてお金になる(この言い方どうなんだろうとはいつも思う)のだから幸せなのかもしれない。

けど。

いつも、なぜか溜まっていく本に「小さな痛み」「後ろめたさ」を感じるのはなぜなんだろうか。

仕事を進めるために、原稿を書くために必要な本たちだからそこにあるのは必然で、いずれ読むのだからべつに後ろめたいことじゃない。ふつうに考えれば。

チクチクとするのは、後ろめたいのは、その本たちを「ちゃんとは読めない」ことがわかってるからだ。

読むのは読む。だけど、それはどうしてもレファレンス(参照)とか、ソース、参考文献の意味合いが強い。あるいは、直接の参考ではなくても、周辺情報の理解のために読むとか。

もちろん、どういう読まれ方をしたって本であることには変わりはないのだから問題ないのもわかってる。その本をどう使うか、どう読むかは基本的に読み手に委ねられてる。

だけど――。

本当はどんな本だろうと、それが学術書のような、いわゆる「読んで楽しい」種類のものでなくとも「ちゃんと」読みたい。

その言葉そのもの、書かれてる出来事、背景にあるもの、そこから広がるもの、レイヤーとして重ねられてるもの。どれもちゃんと手触り感を持ちながら読みたい気持ちが常にある。なんていうか立体的に読みたい。

でも、超絶に限られた時間の中で複数の仕事を同時進行させるためには、そういう「読む」の時間が物理的に足りない。足りさせることができないのは、僕のほうに何かが足りないからなのかもしれない。

でもまあ、そんなのは職業が違ってもいろんな「溜まっていくもの」と、それをちゃんと手触り感を失わずに扱えない悩みとか痛みってあるんだろう。いろんなところで時間とか大切な何かが足りなくて。

本当は、もっと「ちょうどいい」があるはず。そこを探したいんだ。