ちゃんとやらないをちゃんとやる世界
ここのところ、そういう気分だ。
ちゃんとやらないをちゃんとやらなきゃな。
だけど難しい。つい無意識で、ただちゃんとやろうとしてしまう。
いや、基本的にはいいことなんだ。ちゃんとやれるというのは。仕事する上でとか、車の運転とか。ちゃんとやらないと事故る。
だけど、それ以外のところでも「ちゃんとやる」を続けてると身体も思考も強張ってしまう。文章にだって遊びがないと書いていても読んでも息が詰まる。
なんだろう。適当にというのともちょっと違う。鼻歌混じりな気分だったら鼻歌を歌う。ノリノリならそのテンションで。魂が抜けたらそういう感じで。
ただ単にちゃんとやれ、というのとは違う次元で「ちゃんと鼻歌混じり、ちゃんとノリノリ、ちゃんど魂を抜く」のも案外簡単ではないんだ。
まあ、そんなのそもそも考えてやることじゃない。やれる人は自然にやってることだし。
何がそういうのを自然にやれないようにブロックしてるんだろう。恥ずかしさなんだろうか。それとも周りの目なのか。
ちゃんとやらないをちゃんとやってるのって、ある種すごく人間っぽいんだけどどこかで「それじゃ駄目」っていう刷り込みや思い込みがあるのかもしれない。
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それでも海外に行ったときに、たまに「ああ、すごくちゃんとやらないをちゃんとやってる!」と思うことがある。
ある空港のスタバのお姉さんがそうだった。楽しそうに鼻歌混じりでノリノリ――ではなく、くっそ不機嫌で悪態をつきながら放り投げるように見事なオペレーションをしていて「わお」と思った。
「Hi! 何すんの? さっさと言って。面倒くさいの注文しないでよね」
とは言ってないけど、まあそんな感じ。見てると僕だけじゃなく、並んでる他のお客にもみんなそんな対応だった。
あんなにも塩の効いたフラペチーノはなかなか飲めない。のだけど、不快とか怒りとか申し訳ないとかがこみ上げるんじゃなく、なぜか、まあこういうのもありだよなと思った。
あのお姉さんだって、さすがに毎日あんなふうじゃないだろう。毎日仕事してたら、いろいろあるさ。というのが、なんとなく見えたからかもしれない。わかりやすく不機嫌全開だったから。
あれがもし、そこを閉じ込めて無理やり平板な顔をつくって接客とかオペレーションをして、それでも閉じ込めた不機嫌さが蓋から漏れ出てたら、そっちのほうが「なんか嫌な感じ」を受けたかもしれない。
日本の文脈ではまあ褒められない(いや、海外でだっていいねという人は少ないと思うけど)ちゃんとやらなさだけど、そこまで極端じゃなくても多少いろんな振れ幅とかありながら「ちゃんとやらない、やりすぎないをちゃんとやって」人間っぽく仕事するのはありだと思う。
矢御あやせさんのnoteの記事も、そうだよなと思った。日本の基準では「全然ちゃんとやってない」のがむしろじわじわいいなと思わせる。
そう、私はハワイの人たちの接客にすごくすごく感動した。最高じゃん。こうじゃなくちゃ!
ハワイの人たちは、自分を殺してまで接客をしていないように見えた。
例えば、完璧にこなすAI搭載ロボットが現れたとして、淘汰されてしまうのはどちらの接客だろうか。
私は淘汰されるのは日本の方だと思う。
自分を殺すことはAIの得意な領域だからだ。
僕もハワイではないけれど、レストランの従業員が音楽をまあまあの爆音で流しながら一緒に歌ってノリノリで掃除してるのを見て、反射的に「なんか、いいな」と思った。
ちゃんと人間をやってたからかもしれない。だからって日本で一時期よくあったバカッター的なことをやってるわけじゃなく、やることはちゃんとやってるのだ。それで何が駄目なんだろう。
ほんと、どんな仕事でも生活でも「ちゃんとやらないを、ちゃんとやる」人間っぽい世界にシフトしたい。しよう。