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手紙は食べるが日常を切り取れないヤギ

日常を切り取るのが苦手だ。まあ、これはわりとメンズに共通する課題なのかもしれない。もちろん、そうじゃない人もいると思う。

だとしたら課題じゃなく個の問題だ。

前にも書いたかもしれないけど、いわゆる「日常の日記」みたいなのが絶望的に書けない。ライターなのに? 

日常と非日常の閾みたいなところを書くのは好きだし、むしろ僕にとってはそっちが日常に見えることすらある。でも、そういうのは基本的にあまり共感されない。

noteでも日常の切り取り方にセンスを感じて泣きたくなる人がいる。あの人とかあの人とか。

変な言い方かもしれないけど、その人が日常を切り取って書くとすごく愛おしい気持ちになる。僕の日常でもなんでもないのに。ごめんなさい。気持ち悪いですね。自分には書けないなぁと思いながら読んでる。

まあどう言っても言い訳にしかならないのだけど、あえて言うとまったく別物なのだ。日常を切り取った文章とライターの仕事で書く文章は。

ライターとして書く文章にもそれはそれはバリエーションがあるのだけど、プロから見れば共通するものがある。

プロの野球選手が、バッティングフォームはみんなそれぞれ違っても、安定してヒットを打つための基本のメカニズムを身に付けているように。

だから、ライターそれぞれの書くスタイルが違っても、ちゃんときれいなヒットとまでは言わないまでもネタというボールを打ち返して塁に出ることはできる。

ちょっとわかりにくくなったけど、メディアの記事にしても書籍の原稿にしても、プロスポーツにルールや試合の局面ごとの型があるように、相手が違ってもやるべきことの大枠は変わらない。

ああこういうタイプのボールが来たな、こういう展開になりそうだなというのをちゃんと認識してゲームを進めることができる。どんな仕事の手紙でもヤギはちゃんと受け取って食べる。

「日常を切り取る」のはルールも型もセオリーもとくにない。

いや、分類すればあるのかもしれないけど、それは結果としてそう分類できるだけの話であって、べつにそこを意識しなければ書けないわけじゃない。日記の書き方に決まりがないのと同じだ。

僕が「いいな」と思って読んでる誰かが切り取った日常は、その人がいつもそこにいる。どこからか借りてきたその人ではなくて。

その人が切り取って歩く日常は、とくに何かが起こらなくても、いやむしろ何かが起こらないほうがよりエモさがある。何もない系のエモさ。

こんなふうに書いててあらためて思うのだけど、僕は誰かの日常が読みたいのではないのかもしれない。誰かが切り取った日常が読みたいのだ。

この違いは、常にわかるようなわからないような微妙なところに置かれている。


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村暮らしのライター/エディター Editing and Book Writing/人とことばと土を耕して生きてます。東京⇄信州。noteでは大事じゃないけど大事なことを。何をしてるかより「なぜしてるか」の深い話を聞いて書くひと→ https://fumigura.com/

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