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昭和歌謡とモノクロ写真のずぶずぶな関係

テレビをリアルタイムで観るなんて、まあなかなかないことだけど「甦る昭和歌謡の世界」的な番組をうっかり観てしまうことがある。なぜなら、昔の歌手の唄が上手いから。

歌手の唄が上手いとか、文字にすると当たり前すぎて変なことになってる気もするけど。

なんだろう。ただ歌ってるのではなく、そこに〝世界〟が立ち上がってくるのが見える。じっとりしてる闇の気配だったり、哀しみが3周ぐらい回ったあとに不意にやってくる寂寥感と解放感の入り混じった瞬間だったり。

ちあきなおみさんの『喝采』とか『夜へ急ぐ人』なんか、足元から持って行かれそうになる。

見るつもりもないのに、耳から入ってきた光景に捉えられてしまうような感じ。

そうなんだよな。歌声が描き出す世界に足を止めてしまうなんて、もはやTVショーの中ではまずあり得なくて(なんか歌っぽいことやってるなぐらい)、林檎ちゃんぐらいつよつよの破壊力を持ってるアーティストは別だけど。

もちろんテレビで歌う可能性がある人に限ればの話で、いまは歌手・アーティストもいろんなレイヤーで活動するのがあたり前だから、歌手の露出=テレビだった世界と同列に語るものでもない。とはいえ。

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ある番組で武田鉄矢先生が、こんなことを仰ってた。

テレビ草創期、白黒テレビ時代の歌手は「聴き入らせる力」が必要だった。カラーになってからは「見せる力」が必要になったのだと。唄がそこまで上手くなくても「演出」が使えるようになったのもカラーだからこそらしい。

この場合の「見せる」は、深い意味での見せるというより、もっと表面的なテレビ受けする見せ方のほうだと思うけど。

ちあきなおみさんの映像を見ると、カラーのはずなのに余計な色が削ぎ落とされて見える。聴き入らせる力が色を凌駕して、より歌い手の本質的な魅力世界に入り込ませてしまうのだろうか。

カラー=情報多、モノクロ=情報少と考えると、これって歌の世界だけの話でもなくて、いろんなものに通じる話だ。

情報が多いほど多層的なほど本質の魅力は埋もれる。演出されがちになる。

モノクロ写真もそうだけど、情報量としては少ないのに演出を寄せ付けない強さがあって、結果的には「昭和歌謡の歌声のような強さ」で世界を生々しく描き出してしまうことがある。

モノクロームなのにカラフルで艶やかで、人々の息遣い、もののけの気配、不穏な悲鳴を愛する何かが見え隠れする。

ずぶずぶになっても仕方ないかな。そう思わせるものが昭和歌謡にもモノクロ写真にもあるのだ。