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食べることはもっと自由でいいんじゃないか

なんか窮屈だなと思う。食べることと健康が結びついた情報を目にするたびに少し身体がこわばる。

あれをもっと食べろ、あれは減らせ、できれば食べないほうがいい、この食べ方はダメ、これとこれを組み合わせ意識しろ。

そりゃね、健康は大事だよ。それに治療的な文脈で制限かけなきゃいけないときは別。

だけど、なんだろう。食べることのデフォルトの部分からなんか「こうでなければならない」がちょっとすぎるんじゃないか。

食と健康ハック的な情報がまったく意味ないとも思わない。へーと思うことだってある。けど、ちょっと「主」と「従」が逆転してる感じがするんだ。

本来、食べることってなんだかんだ言っても「生きてて楽しいこと」の一部だし、そう感じる自分が「主体」だと思う(超個人の意見です)。

なのに健康情報とか健康ハックとしての「食べること」「食材」「料理法」が主体で、人間がそこに追従してるのってなんか変。

それって「情報」を摂取してるだけで、本当の食べる楽しさしあわせは自分に入ってない気がする。一瞬、健康な食事情報をなぞってることに満足するだけで。

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夭折した画家、石田徹也さんの『燃料補給のような食事』というすごい作品があるんだけど、情報が主で人が従になってる食のことを考えるとき、いつもその作品が思い浮かぶ。

はじめて作品を前にしたとき、内臓ごと掴まれたのを覚えてる。今、シカゴのWrightwood 659という美しいギャラリーでやってる展覧会で観れるよ。ちょっと遠いけど。


話がまた寄り道した。

結局、自分の中でうまくバランス取れてればいいんだと思う。何をどう食べたって。えっ!と思うようなモデルさんだって、たまーに夜中ポテチを食べてしまうって聞いたこともある。

あるよ。わかる。けど毎日それをするわけじゃない。昨日はなんかあれだったなと思ったら次の日はリセットすればいいんだし。そのモデルさんもそうしてた。

生きることもそうだけど、生きるとつながってる「食べること」だって、食べることで自分がちゃんと解放されてるほうが楽しい。窮屈から健康もしあわせも生まれないと思う。

『孤独のグルメ』の主人公、井之頭五郎の名言もあったよね。

「モノを食べる時はね 誰にも邪魔されず 自由で なんというか
救われてなきゃあ ダメなんだ」