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人は人生で一度は金町へ行く(後編)

京成電車で金町に向かうには、帝釈天のある柴又への乗換駅でもある京成高砂という駅へ降り立つことになる(そうならない場合もある)。

同じホームからは成田空港や、おそらく一生行くことはないだろう千葉のカタカナ名の造成地へと走る電車などが、まるで無理やりその場所にたぐり寄せられたかのように行き交う。

スーツケースを転がす無言の男の横で女子高生が携帯を見せ合いながら笑い、その隣では帝釈天に詣でるお年寄りたちが20年も前からそうしているかのように陽だまりでじっと動かない。

なんだか、一度に見るはずのない、たくさんの人生が僕の前を通り過ぎていく感じだ。人口密度で言えば渋谷や新宿でも同じような感覚に襲われてもいいはずなのに、なぜかそうした街の中では行き交う人生を感じたことはない。あまりにも密度が高く、しかも速すぎるのだ。

それにしても、まさか自分に何の接点もない京成電車の乗換駅で誰かの人生を感じることになるとは思ってもみなかったので、僕は少しだけなんだか得をしたような気分になった。それが何だと言われれば、何ということでもないのだけれど。

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そういえば昔、『ワンダーランド駅で(原題 Next Stop, Wonderland)』というタイトルの映画があった。たぶん知られてない。一日に何万人という人々が行き交う地下鉄や街で「出会うはずの男と女」が出会わない人生(出会えない、ではない。出会わないのだ)を描いた映画。

一応ジャンル的にはラブコメになるみたいだけど、いま(2010年代)のラブコメには入れてもらえないだろうなと思う不思議なおかしみと哀しみがある作品な気がする。

何万本もの糸が日常という狭い空間に張り巡らされているのに、その中の一本としてお互いに絡み合うこともなく、つまらない日々が進んでいく。心情という弦が切れるギリギリのところが淡々と描かれている。

孤独の無い静寂。憂鬱のような郷愁。サウダージ。劇中でボサノバの名曲がいろいろ使われてるのがまたなんとも妙な落差があって好み。

その映画と似たような感覚を僕は、この京成電車の乗換駅で感じたのだ。

出会うはずの人生。出会わなかった人生。出会うことのない人生。出会えなくなった人生。

どれも、未だに「出会っていない」という点では同じだけれど、その一つひとつの、一人ひとりの「未だ出会っていない」状況も、そのおかしみも哀しみも、そこに至る道筋も一つとして同じではない。決してそのままでは、それぞれの人生が触れ合い絡み合うこともないのだ。

そのことを思うとき、僕は呆然と立ちすくむ。
 
この先、僕は一体どれだけの駅に降り立ち、一体何人の人とすれ違い、出会うはずのない人生を眺めることになるのだろう。