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問わず語りで読ませてくれる人

問わず語りで読ませてくれる人が好きだ。なんかいいよね。誰に同意を求めるでもないんだけど自分で自分に言ってる。問わず語りだ。

まあ、独り言っちゃそうなんだけど。でも、問わず語りで読ませる聞かせるのって相当難易度が高い。

文章の難易度を表す世界的な単位“トマス”でいえば、問わず語りの文章で人を唸らせるのって最低でも1000トマスはクリアできる実力が必要だと思う。そんな単位ないんだけど。

基本的に「独り言」なんて、あまり読みたいと思われない。独り言は独り言だからだ。知らん誰かがぶつぶつ胸の内をつぶやいてるのを読みたくなるって、なかなか難しい。

それでも、そこのハードルを超えて読ませてくれる人っている。

有名だから無名だからは関係ない。なんなら誰が書いてるかもタイトルも何も見なくても、引き込まれる問わず語りもある。

むしろ、明確に誰かに向けられた上手な文章よりも、誰にも向けられてないのにつかまれたりもする。無名性がとか、そういうのでもなくて。

一般的には文章って、ちゃんと読み手に向いていて書きたいテーマが明確で、読み手を誘う構造になっていてとかいろいろ「読まれる」「読ませる」条件みたいなものってあるけど、そういう次元も超えてくる。

何がいいんだろう。

こう書くと矛盾してるように聞こえるかもしれないけど、読ませる問わず語りはただ書きっぱなし、言いっぱなしになってない。

誰でもない誰かにちゃんと語られてる。あるいは、自分と誰かの間にポツンと佇む何かを交えて話しをしている。それはまだ見ぬ読者よりも、その人の文章の中では親密かもしれない。

実際には存在しない「誰か」に親密に語ってるなんて、オカルトじゃんってなるかもしれないけど、ちゃんとそこには「語りを聞く何か」がいるのだ。

そして、そういうところで語られてる問わず語りを読むと、ちょっとした嫉妬心すら湧く。自分もその場所で聞けたらいいのにと。意味わからないね。

誰かを嫉妬させるほどの問わず語り。いつかそんな文章が書けたらいい。そのためには読者を失う覚悟も必要かもしれないけど。