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何者かになることについて

何者かになるの「何者」って何だろう。

この前書いたnoteが意図せず、いろんな方面で物議を醸した(といっても知らん人は知らん事案)みたいで、なんだか「……」な感じだ。

うまく言えないけど、それだけ結構多くのnoteユーザーが「楽しくnoteを使う」以外の部分でいろいろ思うところあるんだなと思って。

まあ炎上してるわけではないのでいいんだけど。とはいえ、いろいろ感じたことを書いてくれる人がいて。そうなんだなぁと思う。

noteではもう何者かになれる時代は終わったという感想とか。

たしかに、一部だと思うけど一時期noteがまるで鉱脈発見というか、ここに行けばスカウトされる、オーディションでデビューな2000年代の原宿(いまもやってるんだろうけど)みたいな感じの風潮があったのは事実。あくまで「風潮」ね。

で、現在のnoteはまたその頃とはちがうステージに立ってる。たとえば以前のようにnoteさんcakesさんが公式かつ独自で「クリエイターコンテスト」をやることはもうないんじゃないかな。

メディアの規模がその当時とはちがって大きくなってるし、いまやったらいろいろ「大変」だと思う。その代り、いろんなコラボ形式でのコンテストは増えてる。そういうことだと思う。

べつに、そういう変化とかがどうこうでnoteさん運営さんに物申したくて書いた記事でもない。

ちゃんと読んでくれてる人にはたぶん伝わってると思うのだけど、僕自身は「何者かになりたくて、なれると期待して」noteを始めたわけでもなんでもない。365日更新(毎日更新)もそれでブーストしたいとかじゃなく、単純に「やってみた」だけなんだ。

というか、noteに書かなくても仕事で毎日文章は書いてる。誇張抜きで書かない日は1日もない。僕のnoteはその拡張現実版みたいなものかもしれない。

何者かになるという文脈でも、僕の場合はもうすでに書籍ライターとして10年(ライター歴はもっと長いけど)やってるから、何者かにという動機も持てない。

なんだけど、タイトルとかだけで切り取ってしまうと「note365日更新続けても何者にもなれなかった」に誤読されてるのも結構あったっぽい。まあ、それは仕方ないよね。そういうものだと思うし。

世の中、いろんな意味で「ちゃんと読まれる」率は思ってる以上に低いのは理解してる。書籍ライティングの世界ではそこはかなりセンシティブに気を遣って書く。

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という話はどうでもよくて、そもそも「何者かになる」ってどういうことなんだろう。どこで何をしてても自分は自分にしかなれない。何者かになれたつもりでも「自分」は絶対につきまとう。

逆に言えば(この言い方は嫌われるんだけど)、何者かになりたくても「自分」がなければちゃんと何者かにはなれない。身も蓋もなく言えば、それで食べてはいけない。

noteを書いてたら何かがどうにかなって自動的に、ちゃんとした何者かになれるかと言えば、それはない。というかそんなのnoteじゃなくてもない。もしあったらそれはバグか詐欺だ。


少年Bさんがツイートしてくれてたのも、ほんとそうだと思う。

noteは何者かになれる場所、メディアではなく「自分が何者かである」ための場所だと思う。自分以外のものになったって、そんなの浅いから持たないよ。

マリナさんは、noteで何者かになりたい風潮と「note編集部のおすすめ」に選ばれないのが苦痛問題(と呼ばれてる)に絡んでこんな記事も書かれてる。

記事の中でも明晰な分析(ちょっと日本語おかしい)がされてるけど、noteで何者かになりたい→note編集部のおすすめに載るのが通過点みたいなのは、もはやないし、そもそもそういう設計をされてたものでもないと思う。

ただ、これはもういまのnoteの抱える宿命的なもののひとつなんだろうな。

だけど、やっぱりこれがnoteであってもなくても大事なことって変わらなくて、何者かになりたいと思うなら、まず「自分がちゃんとある」ことだ。

自分がある人の言葉、考え、行動、漏れてくる細胞レベルの何かは、noteだろうがどこだろうが絶対伝わる。

だから逆説だけど、noteでも、ただただ自分が読みたいものを書けばいいし、見たい世界を描けばいい。

そういう人とゆるくつながってる空気感が好きだし、それは「何者かになってる人」が持ってるものより、心惹かれることがあるから。