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「世界制作の方法」 ネルソン・グッドマン

菅野盾樹 訳  ちくま学芸文庫  筑摩書房

世界制作の方法


ネルソン・グッドマン「世界制作の方法」、今まで超ちびちびと夜家で読んでいたのだけど、昨日家から持ち出して本格的に読む。「世界」とか「バージョン」とか、ここで使われている言葉の定義がイマイチわかっていないけど、それはおいおいでいいのでは…と。

 

  科学者も日常的な事物の世界に属するたいていの存在者や出来事を、負けじとばかり思いきって捨てたり純化したりする。がその一方で彼は、乏しいデータの示唆する曲線のすきまを埋める量を生み出したり、わずかな観察を基にして精緻な構造を造り上げたりする。このようにして彼はみずからが選んだ概念に合い、みずからの普遍法則に従う世界を建てようと奮闘するのである。
(p38-39)


この箇所のちょっと前にも同じような文章があった。今のところ「世界は何か」はわからないとしておく方が面白そうだ。
(2019  01/31)

グッドマン「世界制作の方法」は第2章様式論を読み終わり。語られたもの(内容、主題)、例示されたもの(どんな構文使うかとか、パターンとかいろいろ)、表示されたもの(感じ、感情)の3側面が抱合していて分かち難いのが様式。
(2019  02/06)

いつ芸術なのか


昨日は第3章、今日は第4章。この本買うきっかけとなった、鷲田清一「哲学の使い方」(岩波新書)で引かれた「いつ芸術なのか」は第4章記載。第3章は引用のいろいろ。第4章で必要となる例示とかの引用基礎的理論を第3章でやった…そんな感じ?
上記、「いつ芸術なのか」はこんな感じ。

 ほんものの問いは「どのようなものが(恒久的に)芸術作品なのか」ではなくて、「あるものが芸術作品であるのはいかなる場合か」ーあるいはもっと短く・・・「いつ芸術なのか」である。
(p129)


「芸術とは何か」という定義的な普遍性を目指す問いの立て方よりも、この側面突破?の問いが有効性を持つ。ここから鷲田氏は芸術を哲学に置き換えて読む。
(2019  02/13)

仮現運動と読書


第5章知覚については仮現運動のいろいろ。今までのところは言っているのはわかって面白そうなんだけどその中心にまだ自分がたどり着いていない感あったが、ここに来てかなり興味深くなってきた。

  たとえば日常の読書で、読み手はテキストから断片的な手がかりをひろい上げ、それにおびただしい補充をほどこしているという事実がある。
(p149)


仮現運動とはある短時間で離れた二点がずれて点滅した場合、先に点滅した方から後で点滅した方へと点が運動しているように見える現象。この文庫のカバーにある丸と四角の並びの実験とか予想だにしない結果が得られて楽しい。

導き出されることは、複数の点や図形が仮現運動で動く時はその軌跡は交差することはない、形や大きさは連続的に変容していくように見えるが色は一瞬にして変化する(色のこうした変化が運動・速度感を産む)、グッドマンの仮定として「回顧的構成説」後の方が点滅してから(時間的には遡って)前の点滅からの軌跡が構成される(本人は気づかないまま)がある。

  ある対象の内部に満たされない時空の空隙が含まれることはめったにない。ばらばらの断片を結びつけ、ひとつの対象、または対象のまがいものに仕立てるために必要などんなものでも、われわれは意識してかどうかは別として、熱心に工夫をこらしてその供給に励むものだ。
(p156)


(2019  02/14)

事実と再認識

第6章「事実の炸裂」
タレスからデモクリトスに至る「ソクラテス以前の哲学」において、現代での思想の誤りもあらかた出てきているという。

 何を何に還元できるかをめぐるこうしたおびただしい論争の底に、何をもって還元と言うのかという、繰り返し持ち上がる問いが横たわっている。
(p180)


グッドマンのいう「制作」「炸裂」は以下の二文でわかってくる…かな。とにかく、あるのかないのか一義的に決められない事実そのものより、その事実の捉え方、再認識の方法に眼を向けていることは確かだ(偽の世界を全て認めようということでもない)

 虚構はノンフィクションとほとんど同じように現実世界のうちで働くのである…(中略)…なじみの世界をとらえ、質を変え、作り直し、とり戻し、それらを注目すべき、ときに難解な、しかし結局は首肯しうるーすなわち再認識しうるー仕方で鋳直すのである。
(p188)


現実世界と見ているものも一種の虚構かもしれない(或いはその逆)。科学と芸術(以下の文)のついても同じ関係とは考えられないか。

 たとえ科学の最終生産物が藝術のそれとは違って、字義的な、言葉あるいは数学を用いた、外延指示理論だとしても、どのように探求と構築をおこなうかという点にかんしては、科学も藝術もだいたい同じように進められるのである。
(p191)


(2019  02/20)

綾取りで巡らされた、その向こう側


「世界制作の方法」第7章と用語解説、解説を午前中一気読み。

 藝術作品は、一巻きの布や樽から抜かれた標本ではなく、いわば海からとられた見本である。藝術作品は、字義通りか隠喩的かを問わず、世界のうちにさぐられ組み込まれたさまざまな形、感じ、類似性、対照性を例示する。全部にそなわる特徴は決定されていない。だから見本の公正さとは、樽を徹底的にゆさぶったり、広く散在する場所から水を抽出するという問題ではなく、むしろ見本同士を調整するという問題なのだ。
(p239)


芸術とは決定されない世界の見取り図?

  「絵画は科学の一分野であって、一枚ごとの絵が実験に相当する」
(p242  コンスタブルの言葉)


解説から

 あくまで正しいヴァージョンを求めるべきだとすれば、戯れに投じることはいのちを賭した冒険なのだ。こうして、本書のタイトルにもなった「世界制作」の概念には非実在論という含意がともなっている。ヴァージョンを作りながら、同時にわれわれは文字どおり世界を「作る」。というのは、ヴァージョンを離れたどこかに、完成済みの現実などはないからである。
(p284)


知覚・認知・発達心理学の最近の見地もこのようなものがあった…ような。
で、なんか、ここ読んで、グッドマンの多元的世界の風景が見えてきたような。それは様々に変容していく制作された世界が綾取りみたいに図柄を変えていき、その隙間には…何もない。そんな感じ。

この訳者菅野氏(メルロ=ポンティの「知覚の哲学」の訳者でもある。解説にあるような分析哲学と現象学・解釈学の橋渡しに相応しい)の解説、カルナップ(構成論)、クワイン(基礎づけ主義を壊していく)などを中心に哲学史全体からグッドマンの位置を見晴らせる読み応えのある解説。菅野氏やそれ以前からずっとグッドマンを研究していたという松本氏の本(論文)も見てみたい。
(2019  02/23)

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