20.食文化

食文化は守らなければいけない。

よく聞く言葉である。

日本食、和食、洋食、中華料理、郷土料理、ばっけ味噌…。

食文化といって、頭に浮かぶのはきっとこんな感じだと思う。

どうして守らなければいけないのか。


人間は食べるという行為なしに生きていくことができない。

必ず何かを食べることでエネルギーを得て、生きている。

そのエネルギーは物理的なものも、精神的なものもあるだろう。

食べる行為に思い入れを持つ人が多いのは、その行為から何かのエネルギーを感じ取る瞬間があるからだと思う。

となると、その料理には必然的に思い入れが付随してくる。

一人ひとりが食べてきた料理に思い入れがあるのである。

ごく一般化すれば、「学校の授業でみんなで作ったカレー」には思い出がつきまとい、「みんなで作った思い出のカレーの味」がなくなってしまうのは悲しい、というようなわけだ。

「なくなったら悲しいと思う人がいるから」、というのは食文化を残そうとする動きの要因になっていると思う。


食文化とは何なのだろう。

先人たちが試行錯誤の結果完成させた料理体系か、その土地の料理とともに発展した社会的概念を指すのか、はたまた思い出の味全般か。

そもそも、食文化はどうやって成立するのか。

誰か偉い料理人一人の力で、「はーい今日からここの食文化は肉まんオンリーです」とかなるわけではない(はず)。

もし食文化として決められたとしても、料理をする動作がもたらすであろう「美味しく食べられるものを作りたい、美味しく食べたい」という本能には抗えない。

なんだかんだ、手順に手間を加えたり、いろいろな工夫をしだすのは目に見えている。

さてここで注目したいのが、「作る側の人間」ではなく「食べる側の人間」である。

食べ物は、食べてなんぼだ。あたり前のことのようで抜けがちな視点。

どんなに工夫して作った料理でも、結局は食べる人たちに受け入れてもらえなければ、本望を果たすことはできない。

と、いうことは、だ。

食文化を作っているのは私達、つまり「食べる側の人間」なのではないか?

私達の受け入れた食べ物=選択した食べ物が、食文化として発達している。

こう考えると、食文化は変容して当然だ。

食べたいと思われないものは作られなくなる。

味の濃いものが好きな人は味が濃い料理を選んで食べるようになる。

忙しいから、と料理することを諦める人が増えればすぐに食べられるものが店先に並ぶようになる。

つまりは人の食生活が、そのまま食文化と言われるものの形成に直結しているわけだ。

正直普段の生活において、「今時分は紛れもなく食文化を形成する役割を担っています!!」など考える人はいないと思う。

しかし、思っていなくても、自分が無自覚にその一端を担っているのだ。恐ろしさすら感じる。

日頃私達が何を作るのか、何を食べるのかが食文化にも関わっているという些細な気付きが、これからの各地の食文化を考える上で重要な視点となるだろう。

食文化は守るものではなく、私達が作っていくことで結果的に守られていくものなのだ。


さて、今日の晩御飯は何にしようかな。

そういえばいつだかつくったばっけ味噌が冷蔵庫にいたような。



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