FULL CONFESSION(全告白) 21 新宿は世界一の「反社都市」である

GEN TAKAHASHI
2021/05/05

基本的に映画作家・GEN TAKAHASHIの作文。

第21回 新宿は世界一の「反社都市」である

 今回は長文なので、結論をタイトルにした。

 区役所の隣に、朝までやっている酒場や、ストリップ劇場や風俗店が軒を並べる都市は、世界中のどこを探しても、東京都新宿区以外に存在しない。

 で、おれは新宿区北新宿生まれだ。残念なことに、戸籍上のおれの父親は単なる富士銀行(現・みずほ銀行)の銀行員だったため転勤に次ぐ転勤で、最短では1年未満、長くても2、3年ごとに一家もろとも引越のくりかえしで、子供の頃のおれは新宿育ちではなかった。銀行員に転勤が多いのは、融資先との癒着防止が理由で、要するに社員を信用しない業界ということだ。そういう意味でも、おれは銀行が嫌いである。半沢直樹も嫌いである。

 北新宿で生まれた直後に、おれは関西に運ばれてしまった。兵庫、大阪で4回も転居したが、おかげさんで大阪万博(1970年)には何度も行った。7歳まで関西人やったから、大阪文化も吸収している。これは後にアメリカに行ったときに大いに役に立った。東海岸でも西でもアメリカで会う日本人は、なぜか、ほとんど関西人で、東北から渡ってきたという人に会うたことがない(もちろん、いるんだろうけど)。大阪が歴史的に貿易港だったことと関係あるのかな。まあええわ。

 ほんで、7歳でやっと関東に戻されたものの、新宿の生家は母親の実家だったから、新宿に戻ることはなかった。おれの住民票がようやく新宿区に異動するのは、おれが実家から独立した19歳になってからだ。そのとき、実家は東京中野区の鷺ノ宮だったのだが、自分の人生のスタート地点を新宿に選んだのである。

 最初は西早稲田という地区で、かの有名な学習院女子部がある区域だ。新宿駅からゆっくりめに歩いても30分で着く。四畳半、木枠の窓、風呂なし共同便所の下宿は家賃1万2千円だったが、窓の向かいには、学習院女子部の体育館があり、平日の午後は良家の子女たちの健康な掛け声が、風と共にいい感じの遠いエコーで聴こえたりして心地の良い部屋だった。ゴールデン街で朝まで飲んでも、楽勝で歩いて帰れる。

 丸の内にあった東京都庁が、西新宿に移ってからは、法務局の出張所が都庁広場に出来て、パスポートの更新も便利になった。ビックロ、ヤマダ電機、ヨドバシカメラ、酒場やおネエちゃんたちは歌舞伎町、雀荘、パチンコ、場外馬券売場もすべて徒歩圏内。正統派の芸者遊びなら神楽坂、大人のバーなら荒木町。文化的には、映画街でもあり、落語の「末広亭」も新宿三丁目で、芝居の「紀伊國屋ホール」も、おれの姉貴分が働いていた伝説のジャズ喫茶「DUG(ダグ)」も新宿東口。駅構内には、コアな常連客が多いビールとホットドックの聖地「BERG(ベルグ)」。大阪の吉本興業も新宿の小学校跡地に東京本社を置いた。新宿を象徴する花園神社の裏手である。

 一方、新宿は、自然も豊かで広大な公園がいくつもある。早稲田の隣の戸山公園には、「箱根山」という山手線内側最高峰の標高44メートルの山もある。西新宿には新宿中央公園、神宮外苑も新宿で、新宿御苑の日本庭園に行けば大都心のど真ん中とは思えない静けさと、マイナスイオン充満の空気も味わえる。都庁からヤクザの事務所から学習院から、緑豊かな公園まで、全部、新宿にあるのだ。あー、良かった、良かった。新宿に戻れた。

 で、やっと本題に入るのだが、さらにその前に、おれが生まれた新宿の生家の物語に触れておきたい。過去のインタビュー記事では話したことはあるが、ネットでは初めて書く。自慢話ではなく歴史的なストーリーだからだ。

 おれの祖父は日本アニメーションの先駆者とも言われる、東映動画(現・東映アニメーション)の創立者のひとりで映画監督の藪下泰司(やぶした たいじ)である。とりあえず、ウィキペディアでチェックしてね。
 この藪下の自宅が北新宿だった。ちなみに藪下は大阪人だ。戦前、東京美術大学(現・東京藝術大学)写真科への進学を機に上京し、以降、戦争を挟んで東京に住んだ。

 北新宿のこの家は中庭もある和洋折衷のなかなか凝った2階建てで、おれは幼い頃から、母親の実家であるこの家が大好きだった。藪下は東映動画の取締役でもあったが、意外なことにこの家は賃貸だった。理由は、破格の家賃の安さだ。この家は地元では「幽霊屋敷」として有名だったところ、おれのじいちゃんは「安いにこしたことはない」と即決で入居したという。

 もともと写真の専門家で、戦前には文部省の実写映画のカメラマンだった(1929年に飛行船「レッドツェッペリン号」が日本に飛来した有名な記録映画などを撮影した)藪下は、戦後も北新宿の自宅に暗室を作って写真の現像も続けていた。
 ときどきおれは、じいちゃんが手焼きする、現像液の中で写真の像が浮かび上がる様子を見ていた。おれの映画の原風景は北新宿にあったのだ。

 この北新宿の実家には、手塚治虫から年賀状、ウォルト・ディズニーからは直筆のクリスマス・カードや、ウッド・ペッカーのネクタイなどのプレゼントが届き、それを幼少のおれが貰っていた(で、ハサミでじょきじょき切って遊んでいたけど、じいちゃんは怒ることもなかった)。
 
 そんなこんなで、北新宿のこの家は、日本どころか世界のアニメーション史で語られても当然の最重要地点なのだが、不幸なことに世界的アニメーション監督・藪下の長男(大阪の叔父)、次男(新宿の叔父)、娘(おれの母親)は、映画の「え」の字も継承することなく、たぶん、カネに困りたくないという理由で映画やアニメとなんの関係もない、いずれも大企業に就職したから、いまでも、このストーリーは身内の外で語られたことがない。

 NHKの朝の連続テレビ小説100作目として話題になった『なつぞら』は、藪下が監督した日本初の長編カラーアニメーション映画『白蛇伝』を製作していた時代の東映動画をモデルにしたフィクションで、じいちゃんをモデルにした監督役を木下ほうか氏が演じていたが、藪下どころか、ちょい役もいいところで残念だった。

 アニメ通なら知る人は多いと思うけど、宮崎駿監督はもともと漫画家志望だったが、藪下の代表作『白蛇伝』を劇場で観て、アニメーションを志すようになったとされている。
 その後、宮崎氏は実際に東映動画の社員となり、藪下の部下となった。だが、藪下は、高畑勲監督と並んでスター・アニメーターと呼ばれていた宮崎駿氏を嫌っていて、後年に至っても「彼らは、会社員だからね」と名指しで批判していた。
 そのことを宮崎氏らが知らないはずはないが、数十年後、おれは藪下が晩年に使っていたライティング・デスクを宮崎さんに寄贈した。
 まさか「いらないよ」とは言えなかったのか、いまでもジブリ美術館の倉庫に「大事に保管させて頂いております」とジブリのスタッフから聞いたことがあるけど、展示されたことはないはずだ(まあ、かなりチープな机で、おれがカッターナイフの傷なんかを付けたり乱暴に使ったものだから、なにも歴史は感じないんだけど)。

 じいちゃんは、松竹から文部省の記録映画部を経て、東映動画以前に、日本動画株式会社という、歴史的だが小さなアニメーション制作会社(これも新宿にあった)に参加した。
 同社の経営破綻から東映に買収された成り行きで東映動画取締役になっただけで、じいちゃんは会社経営に興味はなかったのである(まあ、取締役としてはダメなんだろうけど)。
 経歴から想像するに、じいちゃんは、その時々の創造欲求に愚直に従って、ビジネスや安定した収入よりも、自分の理想と信念が先だったのだろう。
 だから、東映動画労働組合書記長としても有名だった宮崎さんを、アニメーション作家として好意的には思っていなかったんだろうと思う。スタジオジブリが誕生する前に藪下は亡くなっているが、もし生きていたとしても、宮崎アニメと藪下では作風がまったく違うし、なんというのかな、人間的にも水と油のままだったろうと思う。

 じいちゃんは、アニメーションは「少年に対する善意から出発する」べきだという信念を貫いた。
 晩年は、専門学校講師となって、後進のアニメーター育成の教育に専念したのも、そうしたポリシーからで、真に芸術家だったのだろう。東映動画の取締役を退いてからは生計も楽ではなかったと思う。

 おれの叔父にあたる次男が、経済的に困窮しても文化芸術としてのアニメーションを標榜した父・藪下泰司に、ある日、「おやじ、カネと名誉、どっちが大事なんだ」と聞いたら、藪下は「名誉だ」と即答したという。これが、いまでもおれが映画人を続けている最大の理由である。
 そのへんの有名芸能人だって、世襲でタレントだの役者の血統を継いでいる。藪下泰司は、世界のアニメーション史にその名を刻印するアーティストだが、一族郎党、少なくとも数十人いる親類縁者で「映画」を継承したのは、おれひとりだけなのである。

 おれは、とっくに殺されていても不思議ではないような場面に何度も遭遇しているのだが、そのたびに、奇跡としか言いようがないことが起きては、おれは救われ、それで現在も映画を作っている。
 これは間違いなく、次元を超えたじいちゃんの采配だ。この歳になっても、まだ、おれがまともな映画人じゃないものだから、ちゃんと成り上がらない限り、じいちゃんが死なせてくれないのだと思っている。

 と、ここまで来て、やっと本題に入る。

 要するに、新宿は、世界に羽ばたいた「日本アニメーション文化」の原点であって、悪いけどアニメの聖地は秋葉原ではない。
 アニメーションだけではなく、実写映画でも、東京での初めての撮影所は新宿区百人町2丁目23(いまのJR大久保駅脇)にあった。
 ここで、梅屋庄吉という人物が登場する。梅屋は、辛亥革命の指導者・孫文の同志で資金提供者だった実業家で、新宿大久保に広大な土地を買い、邸宅と撮影所を建てた人物だ。

 梅屋庄吉は、若い頃から商才を発揮したが、最も有名な表の顔は映画会社の大物としてである。現在の日活の創立者でもある梅屋は、映画で築いた巨万の富を、すべて孫文の中国革命の軍資金として、あげちゃったのである。わかっているだけで、現在の貨幣価値にして10億円を超えるという。

 孫文は革命指導者なので、当時の中国(清国)にとっては「反社」だった。日本に亡命した孫文は、すべて梅屋のお膳立てで新宿に暮らした。
 梅屋たち、アジア主義の大物右翼(どんどん話が長くなるから、玄洋社・頭山満などの登場人物については割愛!自分で調べてくれ!)の先生方が、孫文への多大な援助を惜しまず、広義には、新宿を中心に大アジア主義という反社会的勢力が形成されていたのである。
 特に中国、台湾の人は「新宿」という地域が、アジア民主化の歴史に巨大な意味を持つことを知っている。

 中国人ばかりではない。インド独立運動家として知られるラス・ビハリ・ボースは、イギリスから逃れて新宿に住み、いまでも人気のカレー・レストラン「新宿中村屋」の娘と結婚した。
 当然ながら、孫文もボースも互いの国の民主化を目指して闘う同志として親交があり、日本のアジア主義者たちもまとめて、いまで言うなら「反社同盟」である。それらは、すべて新宿にあった。孫文とボースが新宿大久保で、一緒にカレーを食べていたなら(実際にあり得た光景だろう)、なんという大河ロマンだろうか!

 夢、義、大志・・・そういう、カネで買えないものに命を賭けた人間が、なぜか激動の時代に東京新宿に集まっていた。
 もしかしたら新宿は、宇宙的な特異点なのかも。実際、新宿駅の乗降者数は1日平均350万人以上で世界一とギネスブックに認定されている。

 現在の新宿区長は通称・ケンちゃんと呼ばれる吉住健一だ。新宿史上、初めての新宿生まれ、新宿育ちの区長で、まだ49歳という若さにして世界一の街・新宿のドンなのである。新宿区長のくせしてゴールデン街で飲んだりもする、ある意味「反社」的な人物である。
 調べればわかることだが、新宿ゴールデン街は、バブル期の地上げやら再開発利権やらで、何度も危機に瀕した。ところが、店主たちの共闘に加えて、警察官僚を含めた行政側にも、ゴールデン街のファン、守護神らが存在しているから、いまもサラ地にはなっていない。いまや世界中のツアーガイドブックに掲載されている、東京の定番観光スポットだ。

 おれとしては、ゴールデン街に限らず、新宿を「世界一の反社都市」として、世界文化遺産にしてもらいたい。
 「反社が文化遺産になるわけねえだろ!」という反論があるかと思うが、おれはそう思わない。「反社」という言葉を「社会の平和を乱し、弱者をイジメて暴利をむさぼる悪」という意味で使うのであれば、現在の日本国政府こそが、わが最大の「反社」だからである。
 そして、われわれ国民は、自分たちの生活も厳しいのに税金はちゃんと納め、それで「反社」政治家どもは食っている。

 人間が住む世界は、0と1のデジタル世界ではない。
 「社会」と「反社会」ではなく、グレーゾーンにこそ大多数の庶民が生きている。そのグレーゾーンを、いまの間違った社会では、「反社」という、よくわからない言葉でひとくくりにして排除しようとしている。
 
 現在の不動産関連契約書には、暴力団排除についての条項が必ず記載されているが、新宿でのそれは形式でしかない。ソープランドは客の入浴を手伝うだけで売春をしている場所ではありませんというのと同じ「建前」だ。
 おれの事務所があった大久保通りのビルの賃貸契約書にも2ページにおよぶ暴力団排除条項があったけど、そこには誰でも知っている有名なヤクザ事務所があって、とてもわかりやすい黒塗り高級車が横付けしては、スーツから入れ墨を覗かせたニイちゃんたちが出入りしていた(でも、カタギに迷惑はかけない)。当たり前だ。グレーゾーンという建前がないデジタル国家では、人間も不要になってしまうからである。

 新宿は、正しい意味での「反社都市」であり続けるべきだ。


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