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どこにもないけどすぐそこにある場所とどこにもいない私

消費と人間関係に、都市空間がどうコミットメントするのかということが気になっている。

消費をするのも、人間関係を構築するのも、性質の差はあれ、オンラインでも問題なくできる。オフラインでの行動とオンラインでの行動には、移動時間と派生需要、匿名性という大きく3つの違いがあるんじゃないだろうか。

消費について考えてみよう。

まず、移動時間について、映画館で映画を視聴するのと、自宅でNetflixで映画を視聴する場合を考えると、前者では視聴開始時刻に合わせて往復の移動時間とか映画が始まるまでの諸々の時間がかかるけど、後者では自分の都合に合わせて、今から見るぞと思った瞬間に視聴を開始することができる。Netflixは、だらしない格好で自宅に引きこもったままで、誰とも会わずに好きな映画を見られて最高である。
 もちろん、映画館でしか見られない公開したばかりの映画を見たいとか、彼女とデートしたいとか、そういう場合は映画館に行くんだろうけど、Netflixだって、限定配信の映画はあるし、彼女とおうちデートはできる。
 漠然と映画を見るということをしたい時に、映画館に行くのか(オフライン)、自宅で動画配信サービスで見るのか(オンライン)、どちらの選択肢を取るのかは、自分が使える時間をどういう行動に配分したいのかというところに依存するのだろう。例えば、4時間暇な時間があって、映画を見るということはしよう、ということを考えた時に、『往復2時間の移動という行動自体を散歩を楽しむ時間として過ごし、映画開始までの少しの時間でポップコーンを買ったり、映画館の隣にある本屋さんで何か本を買おう』という計画を立てるタイプの人は映画館に見に行くだろうし、『2時間の映画を見て、2時間は本を読む時間にしよう』と計画を立てるタイプの人は自宅で映画を見るだろうというようなことである。

 さて、ここで、『映画開始までの少しの時間でポップコーンを買ったり、映画館の隣にある本屋さんで何か本を買おう』というのは、映画館という場所に訪れずには実行することができない派生需要と考えることができるだろう。これはオフラインの行動だけに発生することかというと、そうではないと思う。オンラインでの消費の場合には、その人の消費履歴に基づいてレコメンド商品が表示されて、それきっかけで消費をするというのは、オフラインならではの派生需要なんだろう。しかもオンラインでは、消費すればするほど、自分の行動データをプラットフォームに提供すればするほど精度は上がるから、自分で既に認知している興味を深堀りするにはとても分かりやすいメリットを僕たちに提供してくれる。
 何らかの目的のために、どこかに行って、その周辺でついでに夜ご飯の買い出しをするとか、その道中にたまたま目に入ったものとの出会いを楽しむとか、移動時間の恋人との会話を楽しむとか、オフライン空間で移動する時には、そういう主目的と合わせて何かを楽しむということが、主目的の達成に対する計画あるいは期待の中に内包されているような気がする。オンラインの場合は、何らかの目的達成に対してクリアな計画(計画というほどではないが)を、想定通りに身軽に実行できるという分かりやすいメリットを僕たちに提供してくれるけれど、自分の興味がある方向へどんどんと進むことができる一方で、興味の幅を広げるということについては意識的に自分でそういう行動を取らないといけないのだろう。

 ところで、僕は、地方から東京に出てきた人間だが、上京当初から東京はなんと過ごしやすい場所なんだろうと感じた。それは単(ひとえ)に、匿名性が僕にそう思わせた。地元では、外を出歩くにも、誰かに会ったら嫌だなという気持ちを他の誰よりも強く抱えていたから、買い物や映画などあらゆるオフライン行動を取るにも、"危険"と隣り合わせだった。だから、学校の友達と遊ぶ(そもそも友達がいなかったという問題は置いておこう)より、オンラインで匿名で自分の見た目も知らない相手と交流することの方が、"居心地"が良かった。東京に出てくると、僕のことを知っている他者はいないし、あまりに人が多いし、人が集まるスポットも多いから、学校や会社のコミュニティで僕のことを知っている人と出会うなんてこともほとんどなく、全く僕にとって好都合な都市であると日に日に実感した。
 村上龍さんの作品に、『どこにでもある場所とどこにもいない私』という現代の日本のどこにでもある場所を舞台にした短編集がある。『どこにでもある場所』というのは、コンビニとか、公園とか、空港ロビーとか、日本のどこにでもあるような均質化した空間のことだ。『どこにもいない私』というのは、たぶん、均質化した空間では、他者と自分の間に関係性がない、つまり、他者にとって自分はどうでも良い存在で、なんなら存在しないも同然というようなことを言っているのだと思う。建築家の内藤廣さんが、『どこにでもある場所とどこにもいない私』の反対側にある言葉は、『どこかにある場所とそこにあるわたし』だろうと言っていたのを新建築 2019年7月号(建築論壇 どこかにある場所とそこにいるわたし 建築は都市の断片となり得るか)で見た。そして、『この「どこか」という言葉はよい。そこには、少しの不安と少しの憧れが混ざっている。旅する時に訪れるのは「どこにでもある場所」ではなくて「どこかの場所」のはずだ。「どこか」には、未知、出会い、期待が含まれている。世界の流れに逆らって、われわれはしぶとく未来を生き延びるその「どこか」を生み出さねばならない。』と締めくくっていた。『建築は都市の断片たり得るか』という問いが非常に面白いと思った。『都市の断片となることは、都市と同調することでもなく、まったく関係のない異物となることでもない、それが難しい』のだそうだ。こういう都市というスケール感で建築を捉えている建築家は少ないんじゃないだろうか。(話が少し逸れてしまったけど書き直す気力がないからそのまま続けよう。)
 東京という都市では、映画館に行こうが、コンビニに行こうが、そういうどこにでもある場所では、他者と自分の間には関係性がないから、匿名の性質が強いけど、自分の姿が露わになっているから少し危うさがある。例えばコンビニで万引きしている人を見てしまった時、大きな声をすぐさまあげられるだろうか。僕は自信がない。オンラインでの行動の良いところは、偽名と仮の姿(Twitterのアイコンとか)で、オンライン上ではオフラインで交流がある人との関係がないことを前提とすれば、身の回りの人との交流に対してリスクを取ることなく、自由に自分の気持ちや意見をリリースすることができるところだ。僕は弱い人間だから、オフラインで他者と交流する時はいつも危機管理をしている。できるだけ不必要な他者との交流を発生させないことで、問題の発生頻度を抑え、必要な交流では、嫌われないように必死になり心をすり減らしている。オンラインは、正直な自分の表明が先にあって、それを嫌悪しない人が仲良くしてくれるから、危機管理コストが低い(そりゃあインフルエンサーと呼ばれるような人たちはバッシングとかそういう大変なこともあろうが、僕みたいなのには関係がない)。こういう匿名性に対する安心感みたいなものに対する要求度も、それぞれの個人が重要視する価値のアロケーションの問題なんだろう。オフラインで行動することが一般的であるもののうち、オンラインでも代替可能な行動は少なくないはずなのに、どうやら世の中の多くの人が、行動自粛をしなければいけないこの時世の中、ストレスを感じているのは、多くの人の時間/価値配分計画の中に、オフライン空間で過ごす時間の最小時間みたいな制約条件があるからなのかもしれない。

 僕にとっては、オンラインというのは『どこにもないけどすぐそこにある場所』で、『どこにもいない私』を受け入れてくれるところなのかなあ。


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