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築地地区のむかし

はじめに

築地場内市場が閉場してから1年4カ月ほどが経った。

場外市場だけが残された築地の地では、場内市場跡地の再開発や周辺の交通インフラの整備が計画されている。

今年2020年からは、遂に一部で開発業者募集が開始されるとのことで、場内市場移転を契機に、街として大きな転換期を迎えている。現在更地になった場内市場跡地は、東京オリンピック・パラリンピックで使用される大型駐車場の整備が進められているが、大会後には本格的に再開発の動きが加速する予定だ。

再開発の素案(築地まちづくり方針)では、築地地区の将来像について以下のように述べられている。

浜離宮恩賜庭園や銀座、隅田川、そして食文化など、魅力的な資源を有する地域のポテンシャルを生かしつつ、新たな東京ブランドを創造・発信する「創発MICE」機能を持つ国際的な交流拠点が形成されている。従来のMICEの概念を超え、周辺地域とも連携しつつ、国際会議場等の機能を中核としながら、文化・芸術、テクノロジー・デザイン、スポーツ・ウェルネス(健康増進)などの機能が融合して相乗効果を発揮し、東京の成長に大きく寄与する交流拠点として発展していく。
               < 後略 >

将来像(ビジョン)とは、ある時点までに「こうありたい」と考える到達点を社会に示すものであるはずだが、これは要するにまだ具体的に考えられていない、あるいは、私たちにはビジョンは描けません、というような意思表明のように見える。

場内市場が移転した築地地区は、今後どんな街になっていくのだろうか。

築地の地に市場が建設される前は、どうだったのか。どのような形成過程を経ているのか知りたくなり、ざっと調べてみたのでメモを残しておきたいと思う。

江戸時代(1603-1868) 〜魚河岸の起こり〜

 そもそも魚河岸は、江戸時代初期(1603頃)に、徳川家康が、江戸城内の台所をまかなうため大阪佃村から漁師(森孫右衛門ら)を呼び寄せ、江戸湾内での漁業特権を与えた際に、漁師が幕府に納めてなお余る魚介を市中(現日本橋付近(青果の大根河岸は京橋付近))で売ったことが起こりと言われる。

 江戸時代の魚河岸では「問屋」と呼ばれる商人が店を構え、魚の仕入先である生産地と結び付き、独自の流通組織を作り発展した。この頃の取引では、まず「問屋」が「荷主」から魚などの品物を買い取り、「問屋」がこの品物を、値段を決めないまま「仲買人」に渡し、「仲買人」はその品物を「小売商」に売らせた。「仲買人」は市が終わると、「問屋」に集まり、その日の売上結果を持ち寄り、話し合いにより値段を決めるという方式だったそうだ。

 なお、現在の築地場外市場がある土地は、元々は、江戸初期、1657年の明暦大火後に築地に移ってきた築地本願寺の敷地内の土地で、門前町として小さな寺の集まった部分が現在の原形となっている。ちなみに、(日本橋)本願寺南側の町屋は1664年、日本橋魚河岸の魚問屋たちが願い出て開いたことから、魚河岸のあった小田原町に対して南小田原町と名づけられたようだ。

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 そしてその後の復興計画で、隅田川河口部にあたるこの一帯が開発されて武家地となった。江戸中期、松平定信がその下屋敷に浴恩園を作庭しており、明治維新以降海軍用地として使用された後、築地場内市場内になっている。

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この地図を見るとわかるが、かつて築地本願寺は、市場側を向いて建っていた。1923年の関東大震災により本堂を焼失※し、1934年に再建された時に、新大橋通りを向いた現在の本堂の姿となった(写真:明治時代の築地本願寺の様子)。

※ 1657年 明暦大火の際にも本堂を消失している。

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明治時代(1868-1912) 〜中央卸売市場を望む声〜

 明治になると、問屋や仲買人は組合を作ってまとまり、当時の魚市場は千住、新場、日本橋、芝金杉の4カ所に統合・整備されたが、都市の人口増加とともに、取扱量や業者数が増え取引が乱れ、また、不衛生な環境に非難を浴びたため、公設の中央卸売市場を望む機運が高まった。特に、日本橋では1882年コレラの流行により衛生面の不備が問題となり再整備・移転の機運が高まった。

 1889年市区改正を契機に、渋沢栄一により日本橋からの移転意見書がまとめられるも、実現性を伴わないものだったため頓挫。その後大正時代まで、移転あるいは再整備について議論が揺れ続ける。

大正時代(1912-1926) 〜築地に東京市臨時魚市場開設〜

 1918年米騒動を契機に、市場価格のコントロールの必要性が生じ(市場は東京市が指導、運営。衛生的で公正な取引による価格と品質の安定を目指した)、1923年、中央卸売市場法が制定される。市場法に基づき東京市が中央卸売市場の計画を進めていた矢先、1923年関東大震災が発生。日本橋魚河岸も焼失する。

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 震災直後、芝浦に仮設市場が設けられるも、交通の便が悪い/手狭等の理由から、東京市は海軍省から築地の用地の一部を借り、1923年12月、市設魚市場として芝浦から移転させた(暫定市場として建設したが、これが築地市場の端緒である

昭和時代(1926-1989) 〜東京市中央卸売市場の開設〜

 1935年、築地に広さ約23万平方メートルの東京都中央卸売市場が開設。市場へ集まる生鮮食料品は、旧汐留駅からの貨物列車、または、隅田川岸壁の桟橋から船で運ばれてきた(長い貨物列車を収容するため、あの扇状の建物が建てられた)。

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 1941年、太平洋戦争が始まり、築地は市場本来の役割が機能せず、食料配給の場となった。築地は戦争による被害が少なかったため戦前の建物の多くが残るも、GHQ接収・統制により荒涼とした状況が続いた。

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 1945年に終戦を迎え、1947年に果実、野菜類が、1950年に水産物が統制解除(セリによる値決め)となり、徐々に中央卸売市場として機能するようになった。

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 高度経済成長期の1962年、東京の人口は1,000万人を超え、さらに、漁業技術の発達や冷凍技術の進歩によって新鮮な魚が大量に水揚げされるようになり、また、野菜や果物は、農協などの出荷団体の組織が整い、生産の規模も拡大したことで、築地市場の容量を超えるようになり、移転についての議論が始まった。大井市場用地が造成されるも野鳥が棲み付いたことで反対運動があり、築地の移転は白紙となった。

 開場と同時に使用されてきた築地市場内の国鉄東京市場駅は、トラックの普及や高速道路網の整備等のため取扱量が減少し1987年に廃線。また、1964年東京オリンピックを前に首都高速道路の整備が必要となり1960年築地川の埋立が始まった

平成時代(1989-2019) 〜豊洲市場移転〜

 東京都中央卸売市場は首都圏の食生活をまかなう生鮮食料品等流通の一大拠点に発展も、建物の老朽化・十分な作業スペースが確保できないこと・建物が密閉されていないことで品質管理ができないこと等があり、場内市場のみ豊洲へ移転することとなった。

* * *

かなり簡単だが、場内市場移転まではこのような経緯だったようだ。

さいごに

 場外市場に着目してみると、この辺りは1920年代までは北側に位置する築地本願寺の子院と墓地がある門前町であったが、1923年の関東大震災後、ほとんどの子院は首都圏内の他の地区へ移り、日本橋魚河岸が築地へ移転したのをきっかけに、新たに作られた卸売市場に引き寄せられるように店舗や事業体が集まってきた第二次世界大戦後、場外市場エリア に入ってきた商品の多くは不法占拠者で、アメヤ横丁などと同様に、闇市で賑わう場所だったが、その対抗として自治の仕組み(現在の築地食のまちづくり協議会の端緒)ができたようである。
 そしてしばらくプロの買い出し人を中心とした業務用の街だったが、90年代後半より街並みや商習慣に注目が集まり、一般客も多く訪れるようになった。場内市場がほぼ全てが卸で、東京都が所有・管理していたのに対し、場外市場は、大きな小売商店街があり、独立事業体の集まりであったのだ。
 卸商専門から小売商、卸商兼小売商まで様々な事業体からなり、場内市場の仲卸業者にとっては客でもあり競争相手でもあった場外市場は、今後どのような自治とまちづくりを進めていくのだろうか。期待を持って見守りたい。


参考文献/資料
大石末吉. 京橋温故知新録. 第1輯, 東京, 東京平和新報社, 1927, 156p., (「東京平和新報」第5周年記念号).
テオドル・ベスター. 和波雅子, 福岡伸一 訳. TSUKIJI:The Fish Market at the Center of the World, 木楽舎, 2007, 650p.
福地享子. 築地魚市場銀鱗会 編. 築地市場クロニクル【完全版】1603-2018, 東京, 朝日新聞出版, 2018, 239p.
武州豊嶋郡江戸〔庄〕図, 寛永9 (1632)頃. 
嘉永2-文久2(1849-1862)刊〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図 景山致恭,戸松昌訓,井山能知 編. 江戸切絵図 築地八町堀日本橋南絵図. 尾張屋清七. 嘉永2-文久2(1849-1862)刊
1861年(文久元年)京橋南築地鉄炮洲絵図 / 景山致恭 図撰 景山致恭. 京橋南築地鉄炮洲絵図/景山致恭 図撰. 麹町(江戸), 金鱗堂, 文久元(1861).
日本経済新聞. 築地再開発は五輪後に加速 閉場1年、交通整備も, 2019-10-06(2020-02-19閲覧)

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