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イマドキの若者

社会学者の古市憲寿さんが、何かの文庫の解説で、「日本で爆発的な売れ方をした文学作品には、魅力ある若者が書いたイマドキの若者たちの物語であるという共通点がある」というようなことを言っていた。

その例として、村上龍さんの『限りなく透明に近いブルー』や、綿矢りささんの『蹴りたい背中』などが挙げられていて、私は前者を読んだことがなかったので、この週末に読んでみた。

『蹴りたい背中』を読んだときは、共感性を持って楽しく読めたが、当時23歳が書いたという1976年に発表された『限りなく透明に近いブルー』に書いてあることは正直よくわからなかった。

『蹴りたい背中』に描写されるもどかしい感じはわかるのに、『限りなく透明に近いブルー』に描写されるそれはわからない。実体験としての経験がないからなのだろうか、ここに描かれるイマと私が生きるイマが違うからだろうか。今この本が出たら、イマドキじゃないから爆発的に売れないのだろうか。

* * *

講談社文庫から発行されている新装版『限りなく透明に近いブルー』には、綿矢りささんが解説を寄せている。

『限りなく透明に近いブルー』の主人公の気持ちがわかる気がすると述べていて、その理由は、筆者も同じ年代の頃、「見るものを選ばなかったから。」「世界がどんなものかを知るために隠されている暗部も知りたかったから、わざわざ血と暴力の世界にアクセスして直視した」からだという。

私とほとんど同じ今を生きている綿矢さんが、『限りなく透明に近いブルー』の主人公の気持ちをわかったのだとしたら、今のイマも、昔のイマも、若者が抱えているもどかしさとか不器用さは同じで、通過儀礼的にみんなが経験するものなのだろうか。

私に共通知が足りなかったから、『限りなく透明に近いブルー』の主人公の気持ちが分からなかったというのは1つあるだろう。想像力の問題だ。

ただ、昔のイマを生きたことがないからよく分からないけれど、どうやら今のイマドキの若者はより孤独なのかもしれない。そして自分自身、孤独であることを認識していて、でもどうしようもないから特に何か行動を起こすということもなく、散り積もる不安と閉塞感の中に生きているような気がする。

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