見出し画像

“〜だしね”への嫌悪と羨望

私はよく人の話に聞き身を立てる。
バイト中、レストランでの食事中、歩いてる時、人の話に耳をそばだてる。
やらしい習慣だなぁとは思いつつも、
習慣的にやってしまう。

今日も耳を傾けていると
『コロナは中国の策略だしね』と聞こえてきた。コロナ中国陰謀論、Twitterなんかではのべつ幕なしに流れてくるけれど、公然とそういう発言を言う人もいるのだな、と少し驚いた。

同時に、浅はかだな、と思った。
第一に、実際どうなのか本当にわかるのか?と。どれだけのソースがあって『〜だしね』と言い切れるのか、と。『〜らしいよ』じゃなく『〜だしね』なのだ。
第二に、そんなことを人に聞こえるような声で言い切ってしまう神経に対して。
確信があるから声に出せるのだろうけど、
それ以外の可能性を、その別の可能性で生きている人もいる、ということへの想像力の欠如に対して。

ただ、やはり同時に
羨ましいな、とも思った。
その『〜だしね』という確かさに。
確かである、ということが羨ましかった。 
浅はかな存在にはなるまい、と思っているが、
確かさへの羨望はたしかに存在する。

さまざまな事件、出来事に対して
それらしい情報が雲霞の如く押し寄せてくる。
どれもが偽物でどれもが本物に思えてくる。
その情報群から、何かを選び取らねばなるまい、と思っているが、選び取るだけの覚悟がないのかもしれない。

理想論としては、選び取った上で、さまざまな可能性に対して自分を開き続ける、ということなのだろうが。

そういうタフな精神というか
現代における超人(ニーチェ)的精神を培っていく必要があるかもしれない

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?