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小道具礼賛の罠

NODA MAP「THE BEE」の再演日本語版のパンフレットの前書きに
“小道具礼賛”と題した演劇における「見立て」の話がある。
舞台上では、椅子が“犬になる”ことも可能だし
男が“女になる”ことも可能だ。
それは舞台上では「見立て」が成立するからだ。
「THE BEE」本編では指の間に挟んだ色鉛筆を折ることで、“人間の指を折っている“ことにする演出がある。
当時、それを見た(聞いた)私は「ぁぁ。人間の骨が折れるってのはこういうことなんだ」とひどく打ちのめされた。人の指の骨が折れる音なんて聞いたことなかったし、それが鉛筆の折れる音に過ぎないということは理解しているにも関わらず、だ。大学の卒論ではこの「見立て」が可能になる原理みたいなものを書いた。卒論のテーマにするくらいにはこの「見立て」に魅入られていた、ともいえる。

舞台上にいる男が女であるはずなんてないし、椅子はあくまでも椅子だ。
それが演劇という場においてはその境界を越えていく。
より正確に言えば、理性的には男である、椅子である、と認識していながらそれが“女”だったり“犬”に感じられてしまう。
理性的な目線を持ちながら、その理性を超えて顕現してくる。
演劇だけで生じる現象ではないと思うが、この体験を演劇に求めている節もある。私はこの体験がすごく好きだ。演劇をやってる理由と言っても過言ではないくらいに。(もちろん、それだけが演劇の魅力ではないにしても。

閑話休題。

舞台上では何かが何かになることができる。しかし、裏を返せばそれは
ナニモノにもなれない可能性も多分にあるということだ。
演劇における見立ての作用は演じる人と観る人が行う、儀式のようなものだ。儀式とはいってもトランスに入るわけではなく、あくまで理性を前提にしていると私は思っているが。ともあれ、両者が信じなければ成立しない。
通りすがりの人が、「それは犬じゃなくてどう見たって椅子だよ?」と言った途端に一気に崩れ去るような恐ろしく脆いものだ。

舞台上で箱馬を椅子として使う芝居がままある。
箱馬というのは劇場には必ずある、規格の決まった木製の箱で、
足場や土台の用途で利用する。

私は舞台上にこれが出てきてしまうと途端警戒してしまう。
警戒というか、すごく身構えてしまう。
ある抽象的な何か、とかならまだありうる(それも個人的にはきついけど)が、どう見たって椅子には見えない。箱馬にしか見えない。
舞台関係に生きているため、“箱馬”という意味性を強く感じてしまうというのもあるが、しかし、この箱馬を“カフェの椅子”にしたり“ダイニングの椅子”にしたりするのはかなり難しいと感じる。
私にはこの“箱馬”という情報がすごくノイズに感じられる。
そんなノイズが気にならないくらいの凄い芝居であれば
大丈夫なのだろうが、往々にしてそうでないことが多い。
そうでないからこそ、この“箱馬”のノイズが気になってしまう。
仮に、とんでもない名優が箱馬に対してとてつもない情報量を込めるような芝居をしたとして、それでも“箱馬”の呪縛が解けるかはかなり怪しいと思う。

例えば、舞台袖に張ってある暗幕や天井の照明の様に“見えないもの・気にしないもの”にしてしまうのが良いのだろうけど、いかんせん、舞台上の“箱馬”は椅子として扱う以上、役者が座るものである。座るという行為によってどうしても顕在化する。
ある種のお約束として
例えば、舞台袖に張ってある暗幕や天井の照明の様に“見えないもの・気にしないもの”にしてしまうのが良いのだろうけど、照明や幕と違い、舞台上の“箱馬”は役者が座るものである。座るという行為によってどうしても顕在化する。

もちろん、予算的な都合で椅子が用意できない、ということは理解できる。であれば、座らなくて済むような演出に切り替える方がまだ可能性があるのでは?と感じてしまう。
結論、私はあえて箱馬を使うのでない限り、舞台上で箱馬を椅子として扱うのはかなり危険な行為だと思う。
何にでもなれるということは、何者(物)にもなれないということと
裏腹なのだと肝に銘じたほうが良い。
箱馬に限ったことではない。そういうのはもう、本当にたくさんある。
小道具礼賛には罠がある。


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