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知床旅情

北海道の文化

続縄文文化・擦文文化

 北海道は、弥生時代以降「続縄文文化」(紀元前3世紀から紀元後7世紀)「擦文さつもん文化」(7世紀から13世紀)「アイヌ文化」(13世紀から現在まで)という独自の文化に発展しました。

 「続縄文文化」と「擦文文化」の特徴は、本州・四国・九州が農耕文化に移行した後も、狩猟・漁撈・採集を基本とした生活にあります。「アイヌ文化」は、この両者の特徴を受け継ぎつつ、交易や雑穀農耕などを取り入れて発展した文化です。

 明治時代に入ると、集団移住や屯田兵の開拓が始まり、本州から人が入ってきました。このような人たちを和人と言います。和人とアイヌ民族の間ではトラブルも有りましたが、北海道の過酷な環境での生活ではアイヌの人々との手助けが必要でした。

 アイヌがモデルとなっている「ゴールデンカムイ」は、英語やフランス語に翻訳され、世界へアイヌ文化を伝える役割を果たしています。

オホーツク文化

 「続縄文文化」や「擦文文化」とは別に、3世紀から13世紀まで北海道北海岸、樺太、南千島の沿海部に栄えた海洋漁猟民族の文化です。大陸系文化の影響が見られます。後期になると擦文文化の要素が入り込みました。

トビニタイ文化

 トビニタイ文化は、9世紀頃から13世紀頃にかけて、北海道の道東地域および国後島付近に存在した文化様式です。

 オホーツク文化を源流に、擦文文化の影響を強く受けています。その後、擦文文化と同歌して姿を消しますが、アイヌ文化の中にはその影響が多く見られます。

知床の文化

 知床では、オホーツク文化の影響を強く受けたアイヌの人々が暮らしており、シマフクロウやヒグマ、シャチなどを神と崇め、狩猟や漁撈、採取などを行う生活をしていました。

 19世紀に入って、和人たちが移住してくると、タラ漁を中心とした漁場運営がが始まります。戦後になると引揚者による漁場開拓が更に進み、サケ・マス定置網漁業が発展しました。ちなみに、サケとマスはどちらもサケ目サケ科の魚で、生物学的に区別はありません。

自然保護運動

 1960年代に入ると、知床の原生的な自然の価値が評価され、全国で22番めの国立公園に指定されました。

 しかし、1965年以降、「日本列島改造論」による土地投機ブームによって、知床半島の国立公園内の100haに及ぶ開拓跡地が不動産業者の手が伸びていました。

 国や道に買い上げの要請も実現しなかったため、1977年に町が独自に「しれとこ100平方メートル運動」をスタートさせ、土地の買い取りと植樹費用の寄付を全国の人々に募りました。この様子は、テレビ、新聞、雑誌などで大々的に取り上げられ、1997年にはのべ参加人数4万9千人、寄付金額は5億2千万円となり、2010年に100%の土地の買い取りが完了し、森林の再生も進んでいます。

世界遺産

 知床は、第29回ユネスコ世界遺産委員会で「自然遺産」登録が決まりました。

 登録にあたっては、流氷が育む豊かな海洋生態系と原始性の高い陸息生態系の相互関係に特徴があること、シマフクロウ、シレトコスミレ等の世界的な希少種やサケ科魚類、海棲哺乳類等の重要な生息地を有すること等が評価されました。 

 しかし、世界遺産に登録されたからと言ってユネスコから補助金が出えるわけではありません。世界遺産に登録するには、様々な手続きが必要で、かなりのお金が必要ですが、極端に言えば、ユネスコは世界遺産リストの登録・削除をしてくれるだけです。

 世界遺産を保護する目的で設立された信託基金は「世界遺産基金」と言われ、各国が拠出金を出しています。日本は世界第2位の拠出国です。そのお金は、世界遺産委員会の運営や世界遺産リストへの登録・削除、モニタリングや技術支援、基金の用途に関する審議・決定などに使われています。

 世界遺産登録によって、遺産の保護していく地元住民の意識が高くなることはいいことです。また、観光収入が増えることが期待されますが、自然遺産に指定された地域に道路などを新たに作ることができません。真面目な自然保護の取り組みより、外部の観光客目当ての業者が入ってきたり、有料駐車場が増えたりします。知床の場合は、5年で1,175億の経済効果が期待されていましたが、自然遺産指定によって増えた収入の殆どが地元に落ちないということがあったり、地域の生活を乱すということも検討するべきでしょう。

 マスコミ的には、世界遺産に登録されると大々的にニュースに取り上げられ、実際とても意味のあることなのですが、実態としては複雑な社会・経済の問題が起こっているのです。


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