『ごめんね青春!』第9話をレビューする

■第9話「今日大事な人にごめんねとさよならを言います」(2014.12.07 OA)

これまで、回想シーンとラジオの生電話でしか登場しなかったりさの姉・祐子(波瑠)が、第8話のラストでついに14年ぶりにその姿を現します。

その登場が、どうにも不吉で不穏なラスボス感を醸し出しているのは、祐子こそ、平助(錦戸亮)の代わりに礼拝堂放火の嫌疑をかけられ、一度は街の外に追われた“追放者”であり、そんな彼女が“火事の現場に花火の燃えカスが落ちていた”という新事実を持参して帰ってきた、つまり平助の立場を脅かす真実の“追求者”として街に戻ってきたからです。
ひょっとして、祐子は復讐のために事件の真相を暴こうと帰ってきたのでは…という邪推までしてしまいます。

しかし、姉妹の父・善人(平田満)に「お互い、子供のことでは苦労するな」と意味深な台詞を吐く平助の父・平太(風間杜夫)によって、事件の意外な裏側が明かされました。

14年前、三女が火事だと伝えたときの平助の様子がおかしかったことに、母・みゆき(森下愛子)は気付いていたというのです。
そして、家に警察が事情を聞きにきたとき、平太がそれをうまく言いくるめて追い返したことも知らされます。
つまり、平太もみゆきも、自分の息子がもしかしたら事件に何か関与しているかもしれないとうすうす感じていながら、あえて追求をしなかったのです。

平太「言ってどうなる! てめえの息子疑って、問いつめて白状させて突き出して、まだ高校生の息子さらし者にして、表歩けないようにして、何の得がある!」

のほほんと牧歌的に見えた登場人物が、ここにきて見せた意外なグレーの部分。事実だけ見れば、消極的な隠蔽であり、未必の秘匿です。
しかし、正しさを愚直に押し通して、まだ高校生の若者を吊るし上げ、断罪することは、場合によっては正義という名の暴力なのではないか。平太の台詞は、そんな問題提起に思えました。
罪の大きさにかかわらず、過ちを犯した者の素性をほじくり返し、ネットという公然の場に引きずり出して、みんなでボコボコに私刑を加える…そんな昨今の風潮へのカウンターのようにも感じられます。

ただし、もう大人になった平助に、平太はこうも続けるのです。

平太「平助、もう高校生じゃねえぞ。お前は教師だ。文化祭を楽しみにしてる生徒がいる。信頼する先生がいる。あと母ちゃんのことも。ちゃんと考えて、自分で決めなさい

青春時代はよく“モラトリアム(猶予)期間”と言われますが、それはつまり、失敗や罪に対してとるべき責任を、文字通り“執行猶予”してもらっている期間とも言えます。
なぜなら、幼少期〜青春時代にかけての人格や価値観や主体的な意志なんて、親や生育環境といった本人が選べない外的要因によって、いくらでも理不尽に左右されてしまうからです。
まさに、「腑に落ちないのが青春」(第5話の平助の台詞)なのです。

しかし、大人から理不尽を強要されるのが青春時代だとすれば、失敗や罪を“理不尽のせいにできる”のもまた、この時期の特権です。

近年、“毒親”という概念が知られるようになり、生きづらさに苦しむ多くの人に気付きと救いをもたらしました。
私たちが自由意志と自己決定によって獲得したと思い込んでいるものの見方や考え方は、実は親の支配下や影響下で獲得させられた“歪んだ認知”だったのだと考えることで、自分の本当の意志や欲望を自覚できるようになろう、という思考訓練のようなものだと私は理解しています。
つまり、毒親と向き合う作業は、生きづらさのすべてを“いったん毒親という理不尽のせいにしてみる”ことによって、あらためて自分の人生の責任を自分で引き受ける覚悟を決めるために必要な過程なのだと思います。

平助にとって、放火の罪とは、そんな毒親のようなものであり、青春時代の理不尽の象徴なのではないでしょうか。
だからこそ平太は、罪悪感に逃げ込んでいつまでも人生を前に進めようとしない平助に、「もう高校生じゃねえぞ。(略)ちゃんと考えて、自分で決めなさい」とハッパをかけたのでしょう。
「生きづらさを理不尽のせいにしていられる特権はもう通用しないぞ。いいかげん、自分の人生には自分で責任を取りなさい」と言っているのです。

* * * * * * * * * *

もうひとつ、第9話にはこのドラマを語るうえで大変重要な台詞が出てきます。

ギャグがすべっていることを表す“寒い”という俗語を、平助が生徒たちに説明する場面です。
“寒い”とは、“つまらない”よりも優しい言葉なのではないかという平助は、文化祭の準備に躍起になっている生徒たちに、わざわざこう語りかけます。

平助「あえて言いますが、文化祭なんて基本“寒い”です。しょうがないよ、プロじゃないし、高校生なんだから」

しかし、その上で「寒いことやってる奴のほうが、寒いってバカにしてる奴より、熱い!」と、その“寒さ”を自覚して引き受けることを肯定し、その理由をこう説明するのです。

平助「なぜだかわかるか? 寒いって笑ってる連中は、しょせんは外側にいるからだ。先生な、学生の頃冷めてたからさ、楽しんでる連中を、外側から眺めてた。熱くなっちゃって、バッカじゃねえのって、笑ってた。そんな寒い奴だった。参加しても寒い。参加しない奴は、もっと寒い。だったら参加したほうがいいでしょ」

この台詞からは、プロフェッショナルではない、アマチュアイズムにしかできないこともあるのだ、ということを描いた『あまちゃん』のテーマに通じるものを感じます。
と同時に、私にはこの場面が、90〜00年代サブカルの担い手としての、宮藤官九郎氏の反省と覚悟のようにも聞こえました。

宮藤氏は、日本屈指の“照れ屋”な脚本家です。
場面がシリアスになりかけると必ず絶妙にはぐらかし、メッセージが直球になりそうなときは、すかさずギャグを挟んで中和します。
本作でも、りさが平助に告白している最中にトラックが通って邪魔をしたり、性同一性障害の真面目な説明を稲川淳二のDVDでたとえたり、その“照れ隠し”の表現は随所に登場します。
おそらく、ガチやマジといった“熱い”姿勢をストレートに表現し、物語を特定の感情や価値観に誘導することは、宮藤氏にとって非常に恥ずかしくて“寒い”ことなのでしょう。これは、サブカル特有の感覚であり、個人的にはサブカルの定義とすら言えると考えています。

ところが最近、こうした特定の立場にコミットするベタな“熱さ”を冷笑して、物事をメタ的に見ようとするサブカル的な態度は、何かと批判の憂き目に遭いがちです。
特に、フェミニズムやヘイトスピーチなどの議論を巡っては、「サブカルはなんでも上から目線でにやにや笑いながら“どっちもどっち”と相対化して、問題と向き合わずに自己陶酔してるだけじゃないか!」といったような責めを受け、旗幟を鮮明にすることを求められています。

確かに、これまでのサブカルに、ベタな“熱さ”をメタな立ち位置から“寒い”と笑う側面があったのは事実でしょう。
しかし、それぞれの正義を貫こうとするあまり一方から他方を断罪し、“敵か、味方か”を迫って突きつけるような“熱さ”には、正直、息苦しさと危惧を覚えるのも本音です。
だからこそ、このドラマのように、男と女、仏教とキリスト教、子供と大人、見た目と中身、プロとアマなど、あらゆる規範の境界をうやむやに相対化してしまうことで逆に解放されよう、というサブカル的作法は、これからもまだ有効だと信じたいのです。

他人の“熱さ”を外側から“寒い”と冷笑するのではなく、“寒さ”を自覚した上であえて中に飛びこんで“熱く”振る舞ってみせることもできるような態度が、これからのサブカルには求められているのではないでしょうか。
メタに逃げ込んできたこれまでのサブカルへの反省と、それでもベタに照れることを忘れない(=特定の規範にコミットしない)サブカルの意地を、宮藤氏は「寒いことやってる奴のほうが、寒いってバカにしてる奴より、熱い!」という台詞に込めたのではないかと、私には思えました。

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第9話の最後で、とうとう平助は、14年前の放火の真相をりさ(満島ひかり)だけに告白します。
それは、言い訳も正当化もせず、何もかも失う心づもりで罪をつぐなう覚悟を決めた平助が、別れを想像して一番つらいと思った相手が、りさだったからです。
彼もまた、りさのことが好きになっていたのです。

信頼する同僚であり、自分の好きな男性が、姉や父や自分の人生を狂わせた放火魔の張本人だった。しかも、どさくさに紛れてやっとこのタイミングで、自分のことが好きだと告白してくれた。
怒りと悲しみと、好意と失意と、憎しみと慈しみと、許せない気持ちと許したい気持ちとが、次から次へと押し寄せて激しく動揺するりさ。
あらゆるアンビバレントな感情を一度に湛えたこのときの満島ひかりの演技は、神がかっていました。
そう、まるで背反するあらゆる規範を相対化して飲み込んでいく、このドラマ自体のように。

りさのことが好きな理由は「まだわからない」という平助に、彼女は精一杯の平静を装って、次のように返します。

りさ「私は知っています。私たちが、運命で結ばれているからです。だから、そこら辺の男女みたいに、付き合って、別れて、乗り換えて、ヨリ戻してなんてことしなくていいんです。たとえ煮え切らない男でも、タレ目でも、タレカッパでも、放火魔でも。許しませんけど! それもすべて、試練です。今は、許しませんけど、乗り越えましょう! いずっぱこの、名に賭けて!」

「運命」「試練」といった言葉を使って平助を許そうとする彼女の痛々しいまでに高潔な覚悟と決意は、一見「初めて心を許した相手を、生涯かけて愛し続け、添い遂げることが幸せ」(第2話のりさの台詞より)とするカトリックの教えに忠実であるように見えます。
しかし、彼女が信じているのは、もはやカトリックという規範ではないのではないでしょうか。

りさ「あんたが放火魔でも、私は、ハートの吊り革の伝説を、信じます。いずっぱこなめんな!」

りさが平助のことを許そうとしているのは、彼女がカトリックだから(=神という自分の外にある価値規範が「許せ」と言っているから)ではありません。
ハートの吊り革の伝説を信じているから(=自分の内なる価値規範によって、自分の責任で主体的に「許そう」と決めたから)なのです。

仏教徒だからとかカトリックだからとか、男だからとか女だからとか、恋愛とはこういうものだからとか、そんな外から与えられ、人から押し付けられた規範によって、自分の大事な感情と意志を決められてしまう筋合いはない。
たとえ、はたから見たら取るに足らない(=寒い)都市伝説であっても、自分の責任で主体的に信じられる(=熱い)根拠であれば、私たちはそれを規範として選択し最優先させたっていいのだと、りさは示したわけです。

第4話では、恋愛の根拠の“薄弱性”を象徴するものだったはずの“ハートの吊り革の伝説”が、ここにきて、どんな規範にもとらわれないりさの“強さ”の根拠として反転したというのは、おもしろいなと思いました。

『ごめんね青春!』は、私たちがずるずると引きずっている青春時代という名のモラトリアムをいかに卒業し、大人になるかを描いた物語です。
そして“大人になる”とはつまり、知らず知らずのうちに外から押し付けられてきた規範を“寒い”ものとして相対化し、自分だけの内なる規範を“熱く”信じていけるようになることだと、このドラマは語っているのです。


■第9話その他の見どころ

・冒頭で、みゆき観音が電話で誰かに訴えている「そうなの、近頃説明ばっかりじゃない。しかも、早くしゃべれって言うのよ、もう早口言葉よ! で、結局カットになるの。全カットよ! 信じられない!」は、ギリギリ反則ともいえる楽屋ネタ。特に第7話以降、尺に収まらずカットされた場面が多いことを嘆く宮藤官九郎氏の心の叫びがそのままだだ漏れになっています(笑)

・みしまFMの名物番組『ごめんね青春!』のパーソナリティーを学校に内緒で務めていた三宮校長(生瀬勝久)が、リスナーだらけの校長室で窮地に陥る場面。番組特製ごめんねウナギのグッズを愛用している登場人物を見つけるたびに、「インフォメーションみしま〜♪」というジングルがかかる演出、あざといですけど、笑いました。

「なんなの、勝手にいなくなってこんなタイミングで帰ってきてさあ! いっつも、話の中心はあの女! バレエの発表会の日も、わざと盲腸になってお父さんもお母さんも見にきてくんない! 運動会も遠足もそう! お姉ちゃんのせいで全然楽しめない! 今だってそう、せっかく原先生とふたりっきりなのに、全然楽しくない!」という台詞から、実はりさが放火事件よりも前から、姉の祐子に対して複雑な心情を抱いていたことがわかります。
一般的に、フィクションにおける姉妹って、妹のほうが奔放で、自己主張もコミュニケーションも世渡りも上手で、親からは構ってもらえて男性からはモテて、一方で姉はそんな妹を羨みながら我慢して抑圧されてる…みたいな描写が多いけど、祐子とりさはそれが逆なんですよね。
りさの目には、祐子の盲腸も「わざと」に見えるし、学校を追われて姿を消したことも“悲劇のヒロイン”ぶって自分が割を食ったと思い込んでる。平助に恋をしたのも、“姉のことが好きだった男だから”という理由も実は少なくないんじゃないかなーと、ちょっと思ってしまいます。

・平太が再婚相手として選んだのは、いかにも旧来の家父長制にフィットしそうな、完璧な良妻賢母タイプのせつ子(麻生祐未)でした。しかし、一平(えなりかずき)や平助は、彼女に対して「ツッコミどころがない」と戸惑います。
足を高くあげてピンクのレギンスを見せつけ、味噌汁のだしパックを取り出し忘れても「当たり当たり」とはしゃぎ、寝坊して弁当を作り忘れても悪びれず、「行ってらっしゃい」の代わりに「帰りに女性セブン買ってきて」と声をかける。そんな“ツッコミどころだらけ”のみゆきですが、このドラマは彼女を“ダメな母親”ではなく、兄弟にとっての“愛すべき魅力的な母親”として描きます
思えば、エロくてかわいい元グラビアアイドルのエレナを、一平がトロフィーワイフのように扱っている感じがあんまりしないのも、彼女の天真爛漫で「ドジティブシンキング」(第1話より)なところに、母親に似た魅力を感じていたからかもしれません。
もちろん、誰に強いられるわけでもなく、自ら進んで献身的に尽くすことがせつ子にとっての幸せであり、その生き方が作中で批判されることはありません。しかし、彼女とは対照的に、適当で奔放でポジティブで、何よりも自分のために自分が楽しむことを優先することで、結果的に周りも楽しくなってしまうような、そんなみゆきを、宮藤氏は魅力的な人物としていきいきと描きました。だからこそ、最期に「ああ…おもしろかった」とつぶやいて死んでいく、とても感動的な場面を彼女に見せ場として用意したのでしょう。

・サトシの「そのうちべーやんもさあ、ごめんね、するんじゃないかな」という意味深な台詞からは、彼は放火事件の真相について何か感づいているのかな…とも思ったのですが、どうなんでしょう。


■第9話の名台詞

みゆき「ああ…おもしろかった」

(急性心筋梗塞で意識を失ったみゆきが、いまわの際に残した最期のつぶやき。「幸せだったとか、楽しかったとかじゃなくて、おもしろかったんだって。これ以上、望むことなんてないじゃない」という平太の台詞が涙を誘いました)

・平助「エレナっちょの嫁入り道具なんだっけ」
 一平「バランスボールとDS
 平太「修学旅行か」

・平助「寒いことやってる奴のほうが、寒いってバカにしてる奴より、熱い!」

・りさ「あんたが放火魔でも、私は、ハートの吊り革の伝説を、信じます。いずっぱこなめんな!」

■この記事は投げ銭制です。これより先、記事の続きはありません■

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