最悪の未来を考える(1)都会に対する憎悪
・子供がいない地域社会の到来
私は今、生まれ故郷である人口若干3万人弱の地方に住んでいる。とある理由から30才にして久方ぶりに帰郷することになったのだが、田舎の荒廃ぶりは凄まじい。まず、昼と夜でまるで別世界のように人の移動が異なる。昼間は仕事による経済活動のためか、車の往来はそこそこ多い。しかし、19時を過ぎる頃、あたり一面が暗闇に包まれる。少し前までならば、飲み屋街や商店には活気があったのだろうが、今はもはや風前の灯火といった感じで、孤立した個人店舗が、わずかばかりの大人たちを相手に営業しているのみである。
いわゆる「消滅可能性都市」の一つであるこの場所の空気、風景は都会から一時的に帰郷するだけでははっきりと掴むことはできないだろう。豊かな自然環境、閑静な住まい、広々とした土地。それらは都会に住む人からすれば、のびのびと暮らせる理想的な環境のように見えるだろう。確かにそれは間違いではない。しかし、もはや人口の再生が信じられていない街で生きることが、どういう意識を、そこで生きる人々の脳裏に表出させることになるのかはあまり語られていない。「未来がない」ということは「未来が見えない」ということに繋がり、「未来を見ようとする意志」そのものを根こそぎ奪い取ってしまう。実際、悲しい未来について考えるのは辛い。だから、皆なるべく深刻に考えないようになる。深刻な未来を予見したものは、その場所を変えようとするか、またはそこから脱出しようとする。したがって既存の住民からすれば迷惑な存在となる。そして前者、変えようとするステージを過ぎてしまったならば、ますます若者は(望む、望まないにかかわらず)都会へ脱出するほかなくなるのである。
世界的な資本主義に対する反省、環境保護の機運の高まりによって、地方の見直しの動きは進んでいるものの、こと日本においては、あまりにも遅きに失した。2000年代初頭には最悪でも手を打っておくべきだったものの、衰退局面が確定した段階でようやく「地方創生」というスローガンが語られるようになった。
思えば日本社会全体が、いわばそれの拡大版のような形で、「ありうる未来」や「ありたい未来」の像について考えることを止めてしまっている。この趨勢は当分変わらないのではないだろうか。故郷喪失者が都会に集まり、地方は単なる生産拠点としてのみ利用され、自然環境はそれを維持するための道具となる。「自然と共生する」というのが絵空事になる世界が到来するのである。
P.S.人間に対する無理解がこの事態をもたらした。
・・・人間とは「今日の資産」に安住するよりも「明日の希望」によって生きる存在であり、「明日の希望」は「変化」それも「よりよき変化」をもたらすものによってのみ、それを志向することが出来る存在だということである。
・・・田舎が必要だという前提は変わらない。しかし、その意味合いは変わった。現にそこに住んでいるものたちが、テクノロジーの発達により都会の風景に常時接続できるようになったが故に、その落差に絶望するようになった。そして都会の人間を羨むのを超えて増悪するようになった。無意識レベルで社会の転覆を願うようになった。「戦争の時代」を待ち望むようになった。戦争で真っ先に破壊されるのは都会だからだ。変わらない人間関係の中で、変化を生み出すためには外側に敵を作るしかない。それが都会人ということになる。