見出し画像

私の嫌いな 教育界の言葉(2)「正解のない問い」

「国語の答えは1つじゃない」という言葉がある。典型的な美辞麗句。

「算数・数学」と「国語」の違いを子どもたちに問うと、彼らは既成事実であるかのようにこの言葉を持ち出す。
「算数・数学は答えが1つだけど、国語の答えは1つじゃない」と。

根づいているのだ。
冗談じゃない、と思う。

国語の答えは、1つである。
国語以外においても、1つである。
あらゆる「思考」は、「唯一の正解」を目指してなされるべきである。
「唯一の正解が存在する」という前提で思考しなければ、思考はすぐに停滞する。
「こんな答えも、けっこういいよね」「Aもあるけど、Bもあるよね。Cでもいいよね」
こういう多様性を最初から許容していては、思考が磨かれることなどありえない。

1つの正解を導き出すことのできない子どもが、多様な正解を導き出すことなどできない。
1つの正解を引き出す問いを発することのできない教師が、多様な正解を生み出すことのできる子どもを育てることなどできない。

「正解のない問い」という言葉を多用する大人は皆、まゆつばものだ。
唯一の正解を追求する労苦を厭う者は、最初から「正解がない」ことにしたがる。
唯一の、最高の、最善の「正解」が、きっとあるはずだ。
そう思うからこそ、知性が働き出すのである。

唯一の正解をとことん追求し、精魂尽き果てた段階で、「解Aと解Bは、甲乙つけがたい価値を持つ」と判断したとき、そこに初めて多様性が生まれる。しかしそれでも、その種類は「無限」ではない。多くは、片手の指で数えられる程度である。

繰り返す。「正解のない問い」という言葉は、唯一の正解を追求する労苦を厭う人間だけが、使う言葉である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?