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他人のことは他人がやるんだから気にしないで良いよって話



知人がふいに私に話してきた。

『〇〇(共通の知人)が今地元に帰ってきているって。ずっと住むんだってさ』


その話をされた瞬間、私はなんとも言えない重たい『気』を感じた。

地元から離れて生活していたが、コロナの関係で仕事を続けるのが難しくなり、職を変えた結果、地元の職場になったと。


いろんな変化が今は起こりやすい。それ自体はコロナの関係と取ることもあれば、自分自身がそういう変化の時期だったりもすると思う。それはどんな状況であろうと、その個人の話である。


しかし、私はその話を聞かされた時に受けた重さは何だったのか?


ひとつ思ったのは、この話を私に話してきた知人の感情が乗っていたのではないかということ。



『事実』として話してきたプラス、『情』のようなもの。それは具体的にはわからないけれど、『かわいそう、心配』といったことに近いような。
話のトーン的にも深刻とはいはないけれど、そんな感じだったから。

それに対して私は『なぜ、他人の生活に対してその感情を乗せるのか』と疑問になる。
割と世間的に多いのは、身近な家族へは起こりやすい状況かもしれない。
が、家族だとしてもすでに違う場所でお互い生活をしている。
日々の生活スタイルを把握し合っているわけもないし、毎日連絡を取り合うわけでもない。

私に話してきた知人は、コロナに影響を受けた知人をかわいそうだったり、心配に感じたのは確かだと思う。だけど、もうそこから新しいスタートを始めている。心配というのはなんだか?と思ってしまった。

私に話してきた知人は『今までとは違う、慣れない仕事で大変だろうと思う』と言っていた。

優しさ・・・?なのかな?


私は『へぇ〜そうなんだ』で、これ以上何も言うことないな〜と思って話は終えた。
それは、次へのステップを歩んでいるその知人は自分に集中しているだろうから。
興味関心がないと言うよりも、お互い健康に過ごしましょうねってこと。




自分をまず一番に大切にする人もいれば、他人の幸せを強く願うことを優先している人もいる。
だけど、他人は他人。他人の心理も行動もわからない。
だってさ、数秒後の自分の心理も行動さえもわからないですよね〜。
他人の幸せを願うって素敵なことだと思うけど、自分やもっと自分に近しい人を疎かにしていては、何にもならない。



他人の幸せを願うことをするならば、私は自分の幸せをまずしっかりと満たすことが自分の役目なのかと思っている。





それにしても、最近の私は必要な話題かそうでないかの切り分けがめちゃくちゃハッキリしている。
今までがどんだけ聞き入れすぎていたんだろうと・・・
なんならもっと切り分けても良いよなと思っている今日この頃でございます〜










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