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ひだまりの丘 7

病棟の経管栄養の患者さんに栄養を投与して、数十名の昼食を配膳し終わると、今度は自力では食べられない人の食事の介助に入る。


石井さんも田無さんも気持ちを切り替え、バタバタと動いているように見えた。
普段は担当のチームの患者さんへ担当看護師が、食形態や患者さんの特徴を把握した上で配膳をしていたのだが、今日は人数不足のせいで、ABチーム関係なく配膳をせざるを得なかった。
ゴホゴホと食事にむせる高齢患者の声が、食堂のあちこちからする。
そのたびにスタッフは席を飛び回り、背中をさすったり食べるのを手伝った。


日常の風景だ。
自力で食べられる人は病室で食べてもらい、自力で摂取できない人は食堂にきてもらいスタッフの目の届く範囲内で食べていただくのがルールだった。
私が、Bチームの担当患者で、食事の自力摂取ができない患者が揃っているか、むせていないかを確認していると、一人足りないことに気づいた。


「あれ、広澤さんは?どこで食べてるの?」
広澤さんは、Bチームでいつも食堂で食べるメンバーの一人だ。
食べ物の飲み込みが困難なので、スタッフがいつも付き添っている。
Bチームの看護師が「まだ病室かもしれません。声をかけてきます」と言い、広澤さんの病室へ向かった。
私は、自力で箸を持てない患者のそばで、食事の介助に入ることにした。


突然、「誰か来てー!!」と悲鳴に近い声が上がった。
遅れて、ナースコールが鳴り出す。
広澤さんの部屋だ。
私はその場を看護助手に見ていてもらうよう頼み、病室へ向かった。
そこには、真っ青な顔をして喉を手で押さえたまま呼吸をしていないような広澤さんの姿があった。
食べ物が詰まったのだ。
あたふたしているBチームの看護師をしり目に、私はベッドに乗り広澤さんを抱え込んで腹部を突き上げた。
詰まらせた人に詰まった食べ物を吐き出させるハイムリック法だ。
小さく呻いた広澤さんの口から出た食べ物をかき出す。
次々と出てくるも、広澤さんの意識は戻らない。


冷たい汗が背中を伝う。
「コードブルー!先生呼んで!」
気づけば、怒鳴っていた。はじかれたようにBチームの看護師が、緊急コールをかけに飛び出していった。
新人のときから幾度となく、会話を重ねてきた広澤さんは、実家の近所のおじさんくらいに親近感のある存在だった。
知っている人が苦しそうにしているのは、思っている以上に動揺する出来事だった。
「なんで、広澤さんが一人で食べてるの?!誰もついてなかったの?」
今さら問いかけても遅いと思いながら、大声で問いかけてしまう。
「ごめんなさい。私が配膳しました…」
目の前には泣き出しそうな田無さんが、オロオロしていた。
「ちゃんと確認してから、配膳して!いいから、とにかく救急カート持ってきて!」
普段は、彼女を怖がらせないように穏やかに接してきたが、今は緊急事態だ。
つい、大声になる。それを聞きつけて徐々に人が集まってきたようだ。
スタッフならよいが、他の患者さんを動揺させてはまずい。
吸引をしても、これ以上食物残渣が出てこない。
石井さんに声をかけ、ひとまずベッドごと個室に移動した。
医師が集まり始め、救急対応を交代した。
気管挿管の準備が始まった。
石井さんは緊張した面持ちだったが、このような急変に多少は対応した経験があり、動揺を隠して対応ができそうだった。
石井さんへ記録係をお願いし、私は医師へ器具を渡す介助に入った。
泣きながら、救急カートを持ってきた田無さんは動揺を表に出し全く動けそうになかった。


石井さんが田無さんへ「患者さんがみてるんだから、泣かない!涙拭いて他の患者さんの看護をしてきて!!」と言った。
確かに患者は広澤さんだけではない。
看護師が動揺していたら、他の患者に不安が広がってしまう。
それは、厳しいけどもセオリー通りの声掛けだった。
広澤さんの気管挿管は難航した。
入りづらい構造の喉のようで、なかなか入らない。
ベテランの医師が交代してなんとか挿管できたようだ。


後ろで、肩を叩かれた。
隣の病棟の師長だ。
「ここは代わるから。あなたは主治医と橘師長にまず連絡。ご家族にどうお伝えするか相談してきて。」
頼れる人の出現に私はようやく、胸をなでおろした。
「はい、連絡してきます。」
休みの主治医に電話をかけると、いますぐ向かうとのことだった。落ち着いたら説明するから、家族を呼んでおくようにと言われた。
家族に電話をすると、広澤さんの大事な一人娘の和子さんが電話口に出た。
震える声で動揺しながらも、「今から病院へ行きます」と返事が返ってきた。
橘師長へ電話をして事情を説明すると、第一声がなぜ私に聞かずに勝手に家族へ連絡したの?だった。
主治医の許可を得たと伝えたが、病棟看護師責任者の私にまず一報を入れるべきだと言う。
腑に落ちない部分もあったが、すみませんと謝った。家族は今から来られるそうなので、説明時に同席してもらえないか頼むと自分は旅行中だから、すぐにはいけないので明日行くと返答が返ってきた。
長々と続く橘師長との電話に焦りを感じていると、広澤さんの個室へ除細動器を移動させている応援の看護師の姿が見えた。
心拍が停止してしまったのだろうか。
このまま、他の病棟の師長にすべてをお願いするわけにはいかない。
できるだけ、主治医と協力して対応していく旨を伝え、まだ何か言いたげな橘師長の電話を切った。
他の患者の様子を、石井さんに確認して夜勤看護師への申し送りを依頼した。
急いで個室に向かったが、広澤さんの心臓は動かないまま長い時間が経過していた。


私を見ると、隣の師長が目を伏せ、首を横に振った。


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