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大河ドラマ『光る君へ』での武士批判について

私は「信長・秀吉・家康」的な歴史ドラマはそんなに観ないのですが、今回の大河ドラマは初めて平安貴族を主人公にしたものとあって、初回から興味を持って観ています。

前回の放映でおっと思ったのは、武士の台頭を危惧するような台詞が出てきたことです。
(たしか「このままでは武力によって支配しようとする者たちがのさばってしまう…!」みたいな主旨だったと思います)
同時に朝廷が武力を持つことを促すような台詞も出てきます。

たしかに「征夷大将軍」という地位を設定してその後の武家政権の礎を準備したのは朝廷なので、武力による支配の芽というのはこのころからあったということになります。

平安貴族であれば、どんなに権力闘争が激しくても、武力によって解決するという決断にはなりません。
ドラマで代替手段として描かれているのはせいぜい「呪詛」で、被害の少なさという意味ではかわいいものではないでしょうか。

冷静に考えると、今までの大河ドラマでよくある、自分の思いどおりにならないと「よし、合戦じゃあ!」となる社会っておかしくないですか。
(もちろん戦を回避するための水面下の努力も行われていたでしょうが、結果としてあんなに毎年毎年戦をしていたのでは効果ないですし、ドラマ的にも重視されていません)

日本人の「武士好き・公家嫌い」というのは際立っていて、過去の大河ドラマでも公家というのは「まろにはわからぬでおじゃる」みたいな腑抜けか、裏で権力抗争する陰湿なタイプばかりで、かっこいい役はいつも武士でした。
ほかにも「自衛隊には批判的だけど戦国武将は大好き」とか「公家嫌いだけどなぜか公家の親玉である天皇は好き」とかの不思議な現象も見られます。

武士は実力でのし上がるから憧れる、という部分もあるでしょうが、その実力って要するに「全日本・人殺しうまい選手権チャンピオン」てことですよね。
「軍人=暴力装置」としての武士が、権力闘争を繰り返す場面ばかりが「歴史ドラマ」として毎週お茶の間に流れていたのは奇妙と言えば奇妙です。
(もちろん「娯楽なんだからうるさいこと言うな、おもしろければいいだろ」という考え方もありますが…)

一方で『光る君へ』では「貴族だというだけ・高貴な身分だというだけで権力を握る」システムへの疑問も呈しつつ「高貴な身分に生まれた者は国家の行く末や民の生活を守る義務を負う」という、いわゆる「ノブレス・オブリージュ」的な使命感を藤原道長に課すことで、正当化しようとしています。
(それも欺瞞だという意見もあるでしょうし、そもそも史実の道長がそんなこと考えていたのかわかりませんが)

じゃあ選挙に勝った者が権力を握る現代の政治システムが絶対正しいかと問われれば、とてもそうは言えないのが悩ましいところです。
プーチンやネタニヤフが武力で政権を掌握したわけではありませんし…。

ちなみに前回の『光る君へ』では道長と暴力の対峙が予告されていたので、今週この問題がどう展開するか注目しています。

同時に、時代・国・身分・性別を超えてすべての人類に共通するであろう「学ぶこと、知ること、物語ることの価値」「情報や人間関係をめぐる戦い」「性と生殖をめぐる権力関係」が今後ドラマのなかでどう描かれていくか、要チェックですね!





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