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自然神との対話の足跡⑥

宮島八幡宮(みやのしまはちまんぐう)と呼ばれる神社が、徳島県吉野川市川島町宮島にありました。この神社は、かつて日本一の面積を誇る吉野川の川中島である善入寺島に鎮座していました。
善入寺島は大正初期までは粟島と呼ばれ、阿波の語源になったとも言われています。忌部族により粟の栽培が行われたことにより粟島と呼ばれたようです。千年以上前に忌部族により建立されたのが宮島八幡宮で、天日鷲命は忌部の御祭神となります。

現在は社号を川島神社(上の写真の場所:川島町大字川島字城山195番地)と改め、その境内(他の40数社と共)に合祀されています。

吉野川改修工事は明治40年(1907年)に計画が発表され、昭和2年(1927年)に完了しています。工事が行われる前の善入寺島はまとまった1つの村ではなく、市場町、川島町、土成村等で構成され、約500戸3,000人が居住していました。全住人が工事に伴い移転しました。そして宮島八幡宮は吉野川治水工事により爆破解体されました。

先日(2023年7月27日の午前中に)実際の宮島八幡宮跡を確認しました。護岸工事は行われましたが川の蛇行や流れを変えて、例えば粟島の中を貫く水路工事をすること、あるいは広大な遊水地を作ることなどは確認できませんでした。

洪水を防ぐ遊水地という名目で、宮島八幡宮の社のみが完全に撤去された結果になっています(社殿があった場所は土台まで取り除かれた後、水が溜まって池になっています)。実際に善入寺島自体は残っていること、以前と同じ農耕が続いていることを確認しました。つまり、古来からの川の流れ、粟島の存在はそのまま存続しています。上の動画でも指摘されていますが、神社のみを跡形もなく取り去ってしまう必要があったのかという疑問が残ります。

この池は社殿を土台まで取り除いた後ですが、この掘削が緑色片岩を採ることを意図していたというのが見せかけ(フェーク)と考えます。そもそも善入寺島の土壌は砂利、石を基礎としており(現地で拾ったサンプルで上の4つは現地の石、下の3つは鳴門海岸の石)、岩石や岩盤ではないからです。

(吉野川河口域の広範囲に渡ることですが)土が水田に適さない土地であったのは、大河である吉野川に水門がないことにより現在でも海水が川に入り込んでしまうことが主な原因と考えます(縄文海進の時代に海面上昇があった標高9メートルの海面を示しています)。

海水が入りこむ(標高9mの)海面とかつての粟島の位置関係

満潮時に河口に水が流れ込み難いことが、過去の洪水の要因でもあったことは確認できていますので、この改修工事が洪水を防ぐ効果があったことについては否定するものではありません。
改修工事の一環として多くの潜水橋が掛けられ、数箇所にあった渡し場の運営はなくなりました。潜水橋は、交通の便と自然との共生の両立という面からも、人工的でない光景の美しさという面でも一定の評価をすべきものと考えます。潜水橋と島の様子を写した画像で確認してみてください。川の渡し舟の運営が架橋工事で全国的にほぼ完全に姿を消してしまっていることは悔やまれるところです。

阿波の歴史を残す努力を何人かの先人が試みていますが、これについても日の目を見ていません。
阿波出身の国学者である池辺真榛氏は、延喜式の研究を行い、自分の故郷である阿波国が日本のルーツだと確信したようです。その後、池辺真榛氏は阿波藩政を非議したという罪を被せられ、文久3年(1863年)に身柄を拘束され、阿波藩邸に監禁され、不審な死を遂げています。
同じ阿波国出身の国学者に小杉榲邨氏がいました。彼は明治初期に阿波藩から『阿波国志』の編纂を命じられましたが、廃藩置県などによって実現しなかったようです。その後も小杉榲邨氏は『阿波国志』編纂の意思を持ち、阿波国関係資料の蒐集に努めていましたが、日本全国レベルでの調査の必要性を感じ、50年にわたって日本各地を訪れて古文書を書写し続けました。これを整理・分類したのが徴古雑抄です。
毎日のようにSNSにおいて、阿波の神社および史跡への関心が語られています。興味本位や推論ではなく、科学的エビデンスに基づいて真実を突き止める必要がありますが、もうしばらく時間がかかりそうです。



人生は宝石箱をいっぱいに満たす時間で、平穏な日常は手を伸ばせばすぐに届く近くに、自分のすぐ隣にあると思っていた……