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水の災いを恵みに換える

大宮台地に刻まれた歴史

関東平野の中央部には、吹上・鴻巣をほぼ北端にして北本・桶川・上尾・大宮・浦和・鳩ケ谷・蓮田・白岡・岩槻に至る南北およそ38km、東西は大宮市指扇ー白岡市間で最大幅18kmに及ぶ紡錘状の大宮台地が座っている。北外縁部一帯に縄文式前~後期までの土器や貝塚が発掘されているのでこの外縁線が当時の海岸線に相当していたことになる。

埼玉県の旧石器・縄文時代主要遺跡分布図(遺跡分布の外縁線が当時の海岸線になる)

大宮台地の遺跡分布は複雑に入り込んでおり、旧石器・縄文時代に既に関東ローム層が河川による侵食・堆積作用により複雑な起伏を形成していた証拠である。
埼玉県の土地分類調査結果によると大宮台地は北足立台地と記されているが、約7つの支台に分かれ、低地に主要河川が北西ー南東に流れ(西には入間川、荒川上流、南は荒川下流、東は芝川、綾瀬川、元荒川、古利根川が流れ)、各河川の背後には後背湿地と自然堤防がそれぞれ発達している。
大宮台地は火山性岩石が降り積もった関東ローム層(主に武蔵野と立川の2枚のローム層)が河川の浸食・堆積作用により発達した洪積台地である(参考資料:北本市のボーリング地質調査)。
浦和市西堀の関東ローム調査によると、武蔵野ロームの重鉱物はしそ輝石が約50%、上位ほどかんらん石が多く、下位ほど普通輝石と磁鉄鉱が多い。化学組成はSiO2が35~40%、Al2O3は25~28%、Fe2O3は10%、MgOは4%位である。一方立川ロームの重鉱物はしそ輝石が全体の60~70%を占め、次いでかんらん石、普通輝石と磁鉄鉱の順になる。化学組成はSiO2が35~40%、Al2O3はむしろ少なく25%以下、Fe2O3は8~10%、MgOは4%強になる(ここでは記さないが、私たちの身体を構成するミネラルはこれらの鉱物に含まれる成分を農作物が根から吸収したものを食べることで供給される:詳しくはミネラルと生命参照)。
河川の浸食・堆積作用と古東京湾の海進・海退に伴い自然が形成した土地に、有史以来私たち住民は水の災いを恵みに換えようと手を入れてきた。江戸時代以降の利根川東遷、荒川西遷は私たちが遂行した一大水利事業であった(大宮台地および見沼を中心に”さきたま文明論”について、約1年前に史跡散策して検証・論考した記事:自然神との対話の足跡(今の結論)参照)。

水の災いを恵みに換えた白岡市域の歴史

白岡市域で「セフル健康プログラム」開催するに際して、食・農・環境が私たちの健康と蜜に繋がっている(プラネタリーヘルスという)考えを裏付けるエビデンスを求めて、現地散策ならびに調査を行っていたところ、地域の農という暮らしが水利用と切り離せない歴史を実感した。

白岡市域は、排水に苦労してきた地域です。それでも人々は、水のもたらす恵みを大切にして、災いと折り合いをつけながら暮らしてきました。その暮らしぶりを象徴的に残すのが市域西部の大山地区です。柴山沼や皿沼のある大山地区は、南の元荒川と北の星川に挟まれた土地柄もあり、絶えず排水に苦労してきた地域です。
柴山沼を囲む柴山、荒井新田の家々では「水塚」が築かれ、水害に備える風土が形成されてきました。この地域の水塚は、元荒川や星川側より柴山沼側に発達し、沼側の塚の方が高い傾向が見られることから、河川氾濫以上に柴山沼の内水氾濫に備えたものと思われます。
柴山沼や皿沼周辺には「掘上田」が発達し、掘り潰れの水路は集落内まで引かれ、田畑との往復や作物の運搬などに使われていたようです。水害時にはこの舟が物資の輸送や避難に使われたといいます。
また、沼周辺の入会権に関する争論裁許絵図などが残されていることから、古くから、周辺各村が利用することのできる範囲などが決められていたことがうかがえます。
特産の梨栽培が盛んな理由も、地下水位が高くみずみずしい梨がとれることによります。
大山地区に限らず、市域では、水のもたらす災いや不便さを乗り越え水を味方につけ、魅力を引き出して水とともに暮らしてきたのだといえます。このことは、白岡の歴史文化を紐解くうえで極めて大きな特徴であるといえましょう。

白岡市文化財保存活用地域計画 (Ⅲ 排水の苦労を乗り越えてきた低地の暮らし)より


白岡市域(宮代町旧笠原沼を含む)地勢図

個人的に居住している地域周辺で営まれている”ほっつけ田”(掘り上げ田の別称)は、白岡市域にも広がる旧笠原沼(宮代町)の農法であり、その地勢的背景や存在の意味が生まれて初めて腑に落ちた。

オーガニック循環農業の展開可能性

オーガニック農業が農水省で推進されているが、生産地と消費地が近接していないために流通費用(輸送、鮮度保持)が発生している。
泉大津市ではオーガニック給食を提供するために他地域からの有機食材を活用していた(例えば、令和5年8月泉大津市と旭川市の間で有機農産物の供給に係る連携協定が締結され、旭川市産の有機JAS米「ゆめぴりか」を約20トン購入、学校給食「ときめき給食」として提供した)。他地域からの有機食材調達と並行して、泉大津市は有機米や減農薬・減化学肥料の特別栽培米を市内から調達する努力をし、実際に市内の有機米生産量は8年間で30倍に増加した。
白岡市域は地産地消できる土地を確保でき、また大都市圏の交通の要衝にあるため容易に地域流通にアクセスできる地理的な位置にある。(上の地勢図に記されている通り旧日川流域の多くの沼は枯れてしまってはいるが)芝山沼のような自然沼が残されているなど、広域に自然環境が保全されている(日本の歴史的にも唯一といえる)希少な地域であることから、オーガニック農業の展開に優位性があると推察される。
農家の高齢化と地域の過疎化の進行が地域の潜在力を消滅する方向に向かっていることが懸念された。高齢農家が手間をかけられないために使用されている除草剤や農薬が希少な生態系を毀損してしまっている。高齢農家は自らの生活・健康の維持が精一杯の努力であり、新たな試みや夢を追う活動を続けることができない。このような高齢化の危機的状況を目の当たりにしながら、大山小の統廃合を決めた政治的判断には大きな疑問が残る。将来を担う子育て世帯が住み続けられない過疎化を推し進め、自然環境と共に地域の破壊に繋がる愚策といわざるを得ない。

ミネラル水発掘の可能性

太古より一度も枯れたことのない自然沼である柴山沼(底地層)の腐食物質を醸成生成することで、現在活用されている海洋性珪藻土BOLT ESSENCEのようなミネラル水を製造できるのではないだろうか。

奥東京湾が元荒川を遡って最も海進したのは縄文前記で、5500年~6500年前の約1000年間にかけて白岡支台の東も西も海岸が広がっていたと見られている。実際に白岡市域で出土している大山地区の皿沼遺跡、白岡支台の山遺跡、慈恩寺支台の下小笠原遺跡や本田下遺跡などは縄文中期から後期にかけての遺跡であり、これらの地点は海進の際に陸地の高台であった場所であろう。当時の白岡支台西の海岸線は、正福院貝塚(もしくは黒浜貝塚)から西側で潮の干満により海水面を移動しつつ、元荒川と並行に波打ち際が続いていたと推測される。

関東地方の縄文海進と貝塚分布(江戸東京博物館ー縄文2021展示より)

柴山沼や旧皿沼の底地層に海洋性珪藻土と類似の腐食物質が堆積しているとすれば縄文前期の地層を見極める必要がある。

あとがき

私たちは災いを避けて生き残るために水をコントロールしているように見える。しかし水の循環が自然と命を支えていること(プラネタリーヘルスの根底を流れる原理原則)を忘れてしまっているようだ。水の中でミネラル、微生物、酵素が活性化する状態を保つことで私たちは命を永らえることができる。この原理原則を無視する文明は消滅へと向かうしかない。
河を移し水路を巡らして私たちは農業、運送、水道など水利事業を成功させてきているように見えるが、現実に河が枯れ、沼が枯れているのは水の循環が途絶えている査証である。深く洞察し議論し(私たちの身体もろとも文明が消滅してしまう前に)構想し、行動していかないといけない。そして「水の災いを恵みに換える」次の構想は、プラネタリーヘルスの原理原則に則ったものでなければならない。


人生は宝石箱をいっぱいに満たす時間で、平穏な日常は手を伸ばせばすぐに届く近くに、自分のすぐ隣にあると思っていた……