ひのき屋、母校から感謝状をもらう
ひのき屋の話です。過日ホテル函館ロイヤルシーサイドで行われた北海道教育大学函館校創立百十周年記念事業の記念式典[※1]にて、函館校の名声を高める活躍をしたことにより、同実行委員会から感謝状を頂きました。ありがとうございます。
代表のソガ直人と不肖私が記念式典に出席しました。メンバーはそれぞれにいろいろな思いがあることでしょう。
ここでは私が感じたことをざっと。
■26年越しの「答え合わせ」
「研究者になるのは大勢いるが、大学院を出て太鼓を叩くのはお前だけだ」というソガの言葉に納得し、私はひのき屋のメンバーとして1998年4月、社会に出ることにしました。
「ふくだはどこへ行った! 教採(教員採用試験のこと)の出願はあしたまでだぞ!!」と校舎中を探し回った指導教官。「そんなことさせるためにアンタを大学にやったんやない!」と電話越しに叫んだ母。
そうした声を振り切って、「裏切り者」としての旅が始まりました。
それから26年。今回できごとは、あの時の「答え合わせ」のように感じます。「赦し」のようなものかもしれません。
■ひのき屋は「のれん」になった
ひのき屋は長い間、保育園や幼稚園、小中学校・高校で演奏してきました。私が引退を発表した「はこだて新発見野外ライブ」[※2]があった2003年。その頃もまだ居酒屋の名前に間違えられていました。
やがて演奏を観た児童生徒が卒業したあたりから、徐々に活動が浸透してきました。それはテクニックや曲がいいというより「おもしろい人たちだ」という認識だと思います。実際に「大学出たての若造が、太鼓叩いて暮ら」しているわけですから。
その後、新しいことを始めるときはいつも「ひのき屋」の名前を使ってきました。2008年の芸術祭も、2014年の学童クラブも。ひのき屋が何かするなら、それは面白いことだろうと思われるように。
彼らの演奏の旅はまだ続きますが、私からいわせると最近のひのき屋は概念つまり「のれん」になったんだと思います。
■寄り道する人材を輩出するのが「いい大学」
当時の私が知るかぎり、学内で「地域連携」を唱える人はいませんでした。一方で「カイソカイソ(改組)」という声が教職員から聞こえていた時代。その結果、母校から教員養成課程が無くなりました。
最近の卒業生や学生に「俺は中学校教員養成課程社会科専攻だ」と言えば「は?」と返されるし、彼らから「地域協働専攻・国際協働グループです」と言われれば「ナニそれもう一回教えて?」となります。しばらく離れているうちに、母校は変化というか何か逆さまになってしまったようです。
ただ変わらないのは、定期的に「変な人」が出てくることです。ひのき屋に限らず、ギターで歌う人とか、社会活動をしてる人とか、なんかそういう卒業生が。こうした変な人を輩出している限り、実はいい大学なんじゃないかと思うことがあります。
■これからは「古本屋のオヤジ」?
ご多分に漏れずひのき屋は、先人たちに助けられてきました。知恵、食料、人間関係、拠点、投げ銭、廃車寸前の軽ワゴンなど、有形無形のものを授けられ、それを推進力にしてきました。
私自身、行き詰まったときに父からの留守電「いつ帰ってきてもいいんだぞ」を聞いて覚悟を決めたものです。別の大学の先輩から「放っておいてもやっていること、それが君のやりたいことだ」と励まされました。捨てたはずの教員免許や修士号が、最近になってなんのかんのと役に立っています。
今はカルチャーセンター臥牛館なる自社ビルを持ち、みかん箱なる居場所を通じて、多数の常識人と少数の変な人が目の前を行き来するようになりました。
最近後輩に「悩んでるんですけど、どうすればいいすかね」と聞かれました。「元気が出るからこれを読め」と本を渡しました。「こっちは難しすぎるな」「こっちは貸すに惜しい本だ」。
それを見ていたひのき屋のワタナベが、「たくま古本屋のオヤジみてぇだな」と言って笑いました。まぁそのとおりかも知れません。そんなアンタも今じゃ立派な「道徳講師」[※3]だけどな。
この旅、まだしばらく続きそうです。
■母校の先輩
ところで、記念式典では藤井教育長の祝辞が胸を打ちました。人柄や品性においてまるで及びません。脱帽。
※参考・注釈
国立大学法人北海道教育大学函館校「北海道教育大学函館校創立百十周年記念事業を実施しました」2024年10月18日(2024年11月22日アクセス)
e-HAKODATE「はこだて新発見!野外ライブ!!」2003年6月16日(2024年11月22日アクセス)
「子どもの心に響く道徳教育推進事業」のこと。北海道教育委員会教育庁学校教育局義務教育課「ワタナベヒロシ(ミュージシャン)」2024年6月10日(2024年11月22日アクセス)