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【フェラーリと未来派】

 イタリアの新型コロナ危機を乗り越えてフェラーリ再始動を喜んだ矢先にベッテル離脱という悲劇。
 僕はF1は単なる「モータースポーツ」だとは思いません。F1には国際政治が、世界経済が、技術革新が、さらには広告とメディア、資本主義、国民国家と民族のナショナリズムと闘争本能が詰まっていると考えます。F1を考えることと戦争、安全保障を考えることは相似形をなしていると考えます。遊びではありません。
 F1フェラーリにはローマ帝国以来のイタリアの歴史と文化が、キリスト教、十字軍、騎士道、統一戦争、未来派芸術、アバンギャルド、ファシズム、それらを背景としたエンツォ・フェラーリの思想が相まって、これら全てがフェラーリのロマンとエロスを表象している。それを見落とせばこの正統と熱狂は理解できない。
 F1フェラーリマシンが美しいのは、この技術とデザインを生み出すことができたイタリアの2000年の歴史と文化があるからだ。それなくしてぱっと生まれるものではない。人類の奇跡だと思う。しかしその美学はマクラーレンやルノー、メルセデスに敗れてきた。第一次・第二次世界大戦の結末と同じ悲劇だ。
 その中でもフェラーリに影響を与えたのは、1909年のマリネッティ「未来派宣言」に見られる未来派芸術のアバンギャルドな機械文明、スピード賛歌が文化に根付いた当時のイタリア情勢だと考えます。ドイツと並び近代化後進国家だったイタリアの焦りが、早急な近代化と機械化を渇望したのかも知れません。
 F1マシンを作れる国はイギリス、ドイツ、フランス、イタリア、アメリカ、日本以外に世界に存在するか? この国以外でルマンに勝利したマシンを自作できた国はあるか? これらの国は第二次世界大戦を戦った当時かつての世界の軍事国家だ。
 僕が未来派=フューチャリズムの芸術家で一番好きなのはジーノ・セヴェリーニで、彼の作品をニューヨーク近代美術館で初めて見た時ガチで感動した。僕がニューヨークに留学したのもセヴェリーニが好きなのも理由は同じだと思う。僕は都会と機械とスピードに憧れる田舎者なのだ。だから田舎を捨てたのだと思う。
 今年、F1は再開できるだろうか。昨年同様、今年も鈴鹿サーキットでF1日本GPを見て、最後のベッテルを見届けたい。

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