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小学校低学年


小学校1〜2年生(6〜7歳)

小学生になると、初めて将来の夢ができました。

それは、“ごみ収集車の人” です。

かっこよくて仕方がありませんでした。
みんなが臭いと言って嫌がることを仕事にしていること、それだけでも凄いのに、毎日同じ時間に来て、2人ないしは3人で手分けしてゴミを車の中に入れていく...。
まるでバケツリレーのような連携プレー。
お互い話さずとも、理解し合って、信頼し合っているからこそ、これだけの連携ができるのだろうと思い、子どもながらに感動したのです。


*     *     *

6歳(小1)の時、マンションから古い一軒家に引っ越しをしました。

わたしにとっては人生3回目の引っ越しになります。

家では父親が一日中、絵を描いていました。
父親の絵の技術は独学で身につけたものでしたが、それは本当に上手なもので、この頃は個展もよく開いていました。

母親は家にいることがほとんどなく、当時の日記には、自分の両親が授業参観に来てくれていないことへの寂しさが綴られています。


ランドセルや鉛筆、色鉛筆は父親と前の奥さんとの子ども(わたしの姉)が買ってくれました。


そんな姉は父親によく手紙を送ってきました。

手紙には姉が描いた絵も入っており、それはまるで父の才能を受け継いだかのようなセンスがありました。

また几帳面な字で書かれた手紙の文面からは頭の良さが滲み出ていて、父との仲の良さが伝わってくる内容に対し、わたしは激しく嫉妬していました。


ですがこの頃はまだ姉の存在を知りませんでした。

誰かわからない人が、わたしの父のことを『お父さん』と呼び、わたし以上に父と仲良くしていることに、苛立ちを覚えていました。


そんな思いを抱えながらも少しずつ、
この人はきっとわたしの姉なんだろうな、
自分とは母親の違う姉なんだろうな、と少しずつ勘づいていくのでした。


*     *     *

勉強が好きだったわたしは父親に頼んで足し算や引き算の問題を作ってもらっていましたが、間違えると怒号が飛び、叩かれることが多くなりました。

段々と算数も論理的に考えるのではなく、式と答えを暗記するようになっていき、思考するのが好きだった自分には辛い時間となってしまいました。

もはや算数の解き方などわたしにはどうでもよく、どうしたら父から暴言や暴力を受けなくても済むのか、それだけがわたしにとっての最大の問いであり、拘るべき答えでした。

*     *     *


生活の貧さは
保育園時代と変わりありませんでした。

「今日可愛い鉛筆削りがあった。電動で1800円だった。いつか買える日がくるといいね」

夜中に目を覚ますと、母がリビングにいました。


その頃は鉛筆削りを持っていなかったので欲しかったのは間違いないのですが、別に買えなくても嫌だとは思いませんでした。

母親がお店で鉛筆削りをチェックしてくれていることだけでわたしは嬉しくて、十分でした。




わたしが小学校低学年の頃、
一番欲しかったものは図鑑です。

人体解剖図鑑に宇宙惑星図鑑、植物図鑑に動物図鑑、児童書のコーナーに行けば山ほど図鑑が置いてあります。

それらが喉から手が出るほど欲しくてたまりませんでした。


新しいことを学んでいる瞬間だけが当時の自分にとっては最上級の喜びであり、現実の世界から目を背ける方法でもありました。


学校の図書館を利用することはできませんでした。なぜなら上級生が怖かったからです。「借りたいです」その言葉さえ緊張してわたしは言うことができないこどもでした。

学びたい、でも学ぶことができない、そのジレンマから次第に学びたい気持ちも薄れていきました。


小学校3年生(8歳)

性暴力

家の近くには、ブランコや鉄棒、砂場などが設置されている公園がありました。
学校から帰るとわたしはひとりで公園に行き、苦手な鉄棒の練習をするのです。

小学3年生のある日、
いつものようにわたしは自転車に乗って公園に行き、鉄棒の練習をはじめました。
公園にはわたしの他にも3歳くらいの女の子とお母さんが遊んでいました。

17時を回り、親子連れが帰ると、公園にはわたしが一人。

曇り空が広がって、なんだか重く寂しい夕方でした。

公園のすぐ隣には古びたアパートがあり、そこに住んでいる50代くらいのおじさんがわたしに近づいてきました。

《この人、親子連れが帰ったからわたしのところに来たんだな。わたしが一人になるのを狙っていたんだな》
そう直感で思うほど、男性はどこか不自然でした。

「ちょっとこっちに来て、困っているから」


男性の家と公園は近いところにあり、
わたしは男性の家まで連れて行かれました。
そして中に入るよう促されたのです。

『すみません、知らない人の家の中に入ったら怒られるので入れません・・・』

「いいから、早く」

男性のイライラした声が父親を思い起こさせ、怒らせたら殺されるかもしれないと思い、従うことにしました。

部屋の中に入ると、男性はソファーの上に仰向けになりながら、
「ここに来て、寝て」と自分自身のお腹の上を差しながら言うのです。

何がしたいのか全く理解できず、躊躇していると、

男性はわたしの腕を掴み、無理矢理男性のお腹の上に仰向けでわたしを乗せました。

《この人は何がしたいんだ・・・》

その後男性の行動と要望は次第にエスカレートしていきました。

男性が満足すると、次は謎な講義が始まりました。

「子どもは女と男が重なってできるんだ、今俺たちがやったみたいに」

全力の愛想笑いを浮かべながら、
『へえ〜そうなんですね〜!』と返事をしました。

自分の身を守るために身につけてきた演技力を生かして、男性の話を聞き続けました。

「いいか、今日のことは秘密だからな。絶対に誰にも言うんじゃないよ」

そしてわたしは解放され、一目散に家へと帰りました。

帰宅してからも心臓のバクバクは治まりません。
でも父親にバレないように平然を装いました。

誰にも言うんじゃない、その約束を守るためバレないように装ったわけではありません。

その行為がどういう意味を表しているかがわからない子どもであっても、簡単に人に話せる内容ではないということは本能的に感じました。

それに加え、わたしが父親に話せなかったのは、わたしが被害にあったことを父親が知ると、喜ぶような気がしたからでした。

父親のニヤニヤした顔が目に浮かんだのです。


親の奴隷

性暴力に遭い、近所の公園に行くことができなくなった自分は、ストレスを開放する場所を失いました。

父親は買ったばかりのブルーベリージャムを床に投げつけたり、母親が作ったご飯を一口も付けずに流しに捨てたり、家を出て行ったりすることが何度もありました。
お金がないのに食べ物を粗末にする父のことが本当に嫌でした。

この頃の父の発言で忘れられない言葉があります。

『子どもは親の奴隷だ、だからお前は親の言うことをただはいと言って聞くだけでいいんだ。自分の考えなんか持つな』

自分の考えを持たぬように生きることを選ぶしかありませんでした。

その弊害は今でも続いています。
わたしにとっては自分の食べたいもの、やりたいことを他人に伝えることも簡単ではありません。


無理心中

今から山に行って心中しようか。心中って何かわかるか?


父は会社から帰宅すると、鞄を床に置きながらそう言いました。

心中の意味はわかりませんでしたが、嫌な予感だけはしました。

わたしが首を横に振ると、父親は微笑を浮かべながら、『死ぬことだ』と口に出しました。

「嫌だ!」

そう、泣きながら言うと、
『なんだ、怖いのか。大丈夫。お母さんも一緒だぞ』と父は高笑いしました。

怖がるわたしを見て笑う父に、怒り悔しさ恐怖の気持ちが入り混じり、心は張り裂けそうでした。

どんなに辛くても父の前で泣くのはやめよう大人に弱みを見せるのもやめよう。悲しみも寂しさも誰かとは共有できないんだから

このときの決意を鮮明に覚えています。

2年前に名古屋へと来て、この日本には悪い大人だけでなく、信頼できる人もいるんだと知るまで、この決意が揺らぐことはありませんでした。


父が背広を脱いでいる隙に、
わたしはテーブルの上に置いてあるテレビのリモコンに手を伸ばし、父親に気づかれないようにテレビの音量を少しあげました。

死に囚われた父親がこっちの世界に抜け出してこられるようにと、願いながら。


非行

その頃自分の心の中に溜まり溢れ出している感情が、”寂しい”とか”悲しい”とか”つらい”とか、そんな言葉で表すことができることをわたしはまだ知りませんでした。


自分で自分の気持ちも理解できず、突き動かされるまま、わたしは犯罪に手を染めてしまいました。それが万引きです。


8歳の自分は、万引きが悪いことだと十分にわかっていました。
でも鉛筆や食べるものが欲しかったのです。

いや、今考えると、欲しかった気持ちより、自分の中の抑えきれない怒りや、もうどうにでもなってしまえという自暴自棄な感情がわたしを突き動かしていた気がします。


そしてこの頃から、自分の大切なものを傷つけたくなる衝動に駆られていました。
そのものが、自分にとって大事な、本当に大切なものであればあるほど、壊したくなるのです。
心の中に抑えつけた辛さや苦しみと比例して、その衝動は大きくなりました。
元々物は大事に扱う人間だったので、
自分でもこの衝動に焦りを感じていました。

気持ちを抑えきれなくなったら、
とりあえずデスクマットをハサミで切る、

そんなふうに自分で決めて、なんとか気持ちを落ち着かせていました。



ブラックジャック

父親と本屋さんに行ったときのこと。

欲しいものがあっても、“欲しい”というだけで怒られるので、そんなことは口にすることができません。

でも手塚治虫のブラックジャックの漫画が目に入り、わたしはしばらくそれを眺めてしまいました。

帰宅後、父はわたしに言いました。

『ブラックジャック、欲しかったのか?』

わたしは返事に困りました。

《欲しいと言ったら、怒られるだろうか。
欲しくないと言った方がいいのだろうか。
でも欲しかったのか、と向こうから聞いてきたんだから、それに正直に答えるので問題はないんじゃないか...》

いろいろと思考をして、正直に「うん」と一言返しました。


『やっぱりな、そうだと思った』

「わかるの?」

わかるさ、ずっと漫画の方を見てるんだから。買ってきてやるよ


父は再度家を出て、わたしのために漫画を買ってきてくれました。
それも1冊だけでなく、1巻〜3巻までの3冊でした。

わたしは嬉しくて、何百回と繰り返し読みました。

学校の授業はさっぱりでしたが、
ブラックジャックのお陰で、
鉗子とか、チアノーゼとか、敗血症とか、心臓の弁とか、そんな言葉をたくさん知識として得ることができました(笑)
他にも、なぜ我々は生きているのか、なぜ死んでいくのか、そんな哲学的なことも考えるきっかけとなっていました。


わたしがあまりにもブラックジャックを崇拝しているもんだから、父はブラックジャックを全巻買ってきてくれました。

わたしはブラックジャックを今でも大切にしていますし、自分の人生はブラックジャックなしでは語れないと思っています。

わたしは当時、ブラックジャックのような天才外科医は現実にいるのだろうか、ってことを疑問に感じていました。

ある日のテレビで、
脳外科医の福島孝徳先生の特集がありました。
そこで福島先生は神の手を持つ外科医として取り上げられていたので、その時わたしは

《神の手を持つ...、この人が神の手を持つなら、やっぱりブラックジャックのような、全身を見ることのできる外科医はいないんだな...》

と悟りました。


福島孝徳先生の手術はとても美しいもので、もはや芸術作品を見ているかのようでした。
脳幹近くにできた脳腫瘍を、鍵穴手術と呼ばれる直径1c..........,あっ、まずい、このままでは脱線するw

とにもかくにも、わたしは福島孝徳先生のテレビを見た翌日、急いで学校から帰って、父の工具箱をこっそりと開け、針金で脳動脈瘤クリップをつくりました。(笑)


8歳のときに作った脳動脈瘤クリップ


8歳(小3)で、将来は医師になると決意しました。

ただこのころ宇宙にも興味がありました。
けれど宇宙飛行士になることに興味はなく、宇宙飛行士を支える、NASAの管制官になりたいと思っていました。

沢山のパソコンに囲まれて仕事をし、
ミッションをクリアしたら、立ち上がって隣同士とハイタッチをしてみんなで拍手をし喜びを分かち合う...。

そんなシーンをテレビで観たときに、わたしは思ったのです。
あれだけ喜べるのならば、
その裏にはきっと、沢山の血の滲むような努力があったに違いないと。

なんでかっこいいんだ、
よし、管制官になるぞ!


困ったことに、医師と管制官、2つの夢ができてしまいました。

そこでわたしは考えました。

将来はハーバード大学に行って、医学を勉強して、医学×宇宙の研究をするためにNASAに入って...



↑絶対に不可能という夢ではないけれど、かなりぶっ飛んでいますね。どこかの世界線で、わたしがこの人生を歩んでいるとおもしろいのになあ〜!!



予想以上に長くなりました...。

ここまで読んでくれてありがとう。

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